彼の名前は直人。
直人は、古い町を離れ、新しい仕事のために東京へ引っ越してきた。
都会の喧騒に圧倒されながらも、彼は慎ましく生活を始めた。
しかし、仕事が終わった後の家に帰る道は、いつも気持ちが悪かった。
ある日、直人は仕事帰りにふと人気のない小道に迷い込み、そこにある古びたアパートに目を留めた。
不気味な雰囲気を漂わせるその建物に、無意識のうちに引き寄せられてしまった。
中に入ると、どこか懐かしい匂いがした。
長年放置され、壁は薄汚れ、床はヒビが入っている。
しかし、彼の心には、不思議と魅力があった。
直人はそのアパートの一室を借りることにした。
ある晩、彼が酒を酌み交わし、ベランダに出て星を見上げていると、隣の部屋から微かな声が聞こえてきた。
「助けて…助けて…」
直人は驚き、隣の部屋をノックしたが、返答はなかった。
彼は不安な気持ちを抱いたまま、夜を過ごした。
次の日、興味本位で隣の部屋を覗いてみると、そこには誰もいなかった。
そして、壁の一部が壊れて、隣との間に小さな穴が空いているのを見つけた。
無理にその穴を覗くと、まるで向こうの部屋が、かつての何かを祈り続けているかのような暗いエネルギーを感じた。
それからというもの、直人はその声に惹かれ、気がつけば隣の部屋で耳を澄ませている自分がいた。
「助けて…」その言葉は彼の心に執着し、夢にまで現れるようになった。
次第に、彼は現実との境が曖昧になっていき、仕事も手につかない毎日を送っていった。
そして、夜になればなるほど、その声は大きくなった。
直人はそれを無視することができず、ついには思い切って隣の部屋に入ることを決意した。
ドアを開けると、真っ暗な室内。
彼は懐中電灯を持ち、キョロキョロと周りを見渡した。
すると、壁には無数の傷跡が刻まれており、それがまるで何かに引きずられるかのように見えた。
突然、後ろから「ようこそ…」と、冷たい声がした。
直人は振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。
彼女の目は虚ろで、まるで阿呆になっているかのように見えた。
彼は恐怖を感じたが、なぜかその場から動けなかった。
「助けて…私を助けて…」その言葉は彼の心に響いた。
女性は徐々に近づいてきた。
直人は思わず後ずさりしたが、彼女は手を伸ばして彼の手を掴んだ。
瞬間、彼の頭の中に映像が流れ込んできた。
彼女の記憶。
かつてここに住んでいた彼女は、誰かに裏切られて壊れていった悲しい過去があった。
その瞬間、直人は気づいた。
この場所は彼女の迷いの場なのだと。
彼は彼女の苦しみを理解し、彼女が自分を執ように求めている理由もわかった。
彼女の執念は、彼をこの場所に引き寄せていたのだ。
「私を忘れないで…」女性が囁くと、彼は彼女の手を握り返した。
「私はあなたを忘れない。ここから解放してあげるよ。」直人は心を込めて彼女の思いを受け止め、彼女の心の痛みを解き放つ決意をした。
彼女が求める「助け」とは、自らを壊してしまった過去との和解だった。
その夜、直人は隣の部屋で彼女と一緒に過去を語り合った。
何度も涙を流しながら。
彼女の心の中には、愛や友情の記憶が残っていた。
その思いを忘れ去らず、彼女自身が許しを求めることに気づいたとき、彼女の目に光が宿った。
そして、温かい光が二人を包み込み、彼女は穏やかな微笑を浮かべて消えていった。
直人はその後もそのアパートに住み続けたが、もう彼女の声は聞こえなかった。
ただ、彼の心には彼女の思い出が残り続けていた。
過去の影が解き放たれ、生きることの意味を知った直人は、新たな旅路へと歩み出していくのだった。