時は昭和の終わり、町外れの古びた家に住む嫁、ゆう子は、夫の浩司と共に穏やかな日々を送っていた。
年齢は30代半ば、長い黒髪をひとつにまとめ、いつも家事に追われる日常だった。
しかし、彼女の心の中には、常に不安の影が潜んでいた。
それは、夫の浮気を疑う気持ちだ。
最近、浩司の帰りが遅くなり、スマートフォンも持たない時代、何も知らないゆう子はひたすら想像を膨らませるばかりだった。
ある晩、浩司がまたも遅く帰宅した。
ゆう子は食事を用意し、待っていた。
しかし、浩司が帰ってくる気配はない。
フラストレーションが募る中、ゆう子は台所の隅に置かれた古い椅子に腰掛けた。
そこで彼女は、ふと気づいた。
家具の一つひとつが、どこか冷たく見える。
特に、家の中に響く足音が異様に耳に残った。
「本当に、どこにいるの…?」
不安な気持ちが引き裂かれそうにもなり、思わず窓を開けた。
夜の風が頬を撫で、星が瞬いている。
そんな美しい夜空とは裏腹に、彼女の心には膨大な疑念が渦巻いていた。
そうして数日が経ち、浩司が帰ってくる時間がますます遅くなると、ついに限界を迎えたゆう子はある決心をした。
「彼の足音を聞いて、真実を確かめよう」と思った。
その晩、彼女は夜更かしをし、浩司の帰りを待つことにした。
深夜、静寂の中、突然、家の入口から足音が聞こえた。
心臓が高鳴り、ドキドキしながらも、ゆう子は扉の前へと向かった。
しかし、そこには浩司の姿はなく、代わりに見知らぬ靴が並んでいた。
彼女の息は止まり、恐怖に包まれる。
「誰の足音なの…?」
霊のような冷たい感覚が彼女を包み込み、思わず後ろに下がった。
突如、扉が開き、浩司が現れた。
彼の顔には微笑みが浮かんでいたが、それはどこか見知らぬ人のようにも思えた。
「待たせたな、ゆう子」と言った瞬間、彼の足元に目がいく。
彼の靴が泥で汚れ、まるで別の場所から帰ってきたかのようだった。
ゆう子の心には疑念が広がり、何かが彼女の胸の奥を締め付けていた。
浩司の背後で、長い影が揺らめいていることに気づいた。
その影は、まるで女性のようで、同時に恐ろしさを感じさせた。
「浩司、何があったの?」
不安な気持ちから問いかけると、浩司は何も答えず、ただ微笑み続けた。
ゆう子は幻影に気を取られ、彼を無視することができなかった。
すると、その影が次第に彼女の視界に近づいてきた。
自分の足元が重くなり、逃げたいという気持ちが膨れ上がる。
影は鍋のようにしっかりとした形を持ち、ついに自らの足をつかまれた。
「いや、やめて…」と叫びたかったが、声が出ない。
冷たい手が浮かび上がり、ゆう子を自分の方へ引き寄せようとしていた。
その瞬間、彼女は浩司の微笑みが、もはや恐怖でしかないことを理解した。
「あなたの足音、それは…?」と問いかけたゆう子に対し、浩司は決して目を合わせない。
薄暗い部屋の中、彼の影がゆう子を捉え、心は攪乱される。
一瞬、浩司から聞こえてきた声が、その影のものだと思い込むことになった。
その足音はもはや彼女の耳をかすめるだけでなく、心をかきむしり、絶望に満ちた昼下がりのような感覚をもたらした。
実際の浩司は、いつしかその影と一体化させてしまったかのように思えた。
叫びもせず、逃げることすらできず、ゆう子はその冷たい足音に囚われていく。
彼女の心の動揺は、ゆっくりとした終焉を迎え、夜の深い闇に飲み込まれてしまったのだった。
新しい日が来ることがなく、その家にはもう誰も住まなくなった。
彼女の最後の瞬間は、一生忘れられない恐怖の影で包まれていた。