彼の名前は佐藤健太。
彼は大学生で、文学部に在籍していた。
自宅近くの古びた図書館には、彼が頻繁に通うお気に入りの場所だった。
文学に対する強い興味を抱き、古い書物を手に取ってはページをめくり、歴史の息吹を感じるのが彼の日課であった。
しかし、ある日、運命的に出会った本が、彼の人生を大きく変えることになるとは、この時の健太には知る由もなかった。
その日は、図書館の奥の棚で見覚えのない本を見つけた。
表紙は黒く、タイトルはどこにも見当たらない。
心の中に好奇心が湧き上がり、彼はその本を手に取った。
ページをめくると、真っ白な紙が無限に続いていた。
表現する言葉がなく、ただ空虚な白が広がるだけ。
急に不安に襲われた健太は、すぐに本を戻そうとしたが、何か強い引力を感じ、再びページを開いてしまった。
その瞬間、彼の視界に異変が起きた。
白いページから、静かに黒い文字が現れ始めた。
最初はぼんやりした形で、次第にはっきりとした文字になっていく。
それは、彼の日常や、周囲の人々のこと、彼が記憶していた出来事の詳細を描写していた。
健太は驚いた。
同時に恐怖を感じた。
まるで彼のすべてを把握されているかのようで、その感覚が彼を強く掴んで離さなかったからだ。
彼は、知っている人々の名前や出来事が次々と描かれていく様子にたじろいだ。
彼自身の生活も書かれ、自分がしたこと、見たこと、思ったこと、すべてが記されていった。
それを見て、健太は恐ろしい現象に直面していると感じた。
それが何かの記録なのか、彼の未来を掴もうとしているのか、理解できなかった。
急に、本の中の文字が彼の目の前で現実に引きつけられ、まるで現実の世界に飛び出してくるかのように感じた。
その瞬間、彼は何かが変わった気がした。
健太は、その日から次第に忘れられた記憶が甦るのを感じ、日常の出来事が本に書かれていくのを目の当たりにしていた。
夜毎、彼はその本を開くことになった。
ページをめくれば、次の出来事が待っている。
最初は興味深かったが、彼の生活はいつしかこの本に支配されるようになってしまった。
彼は本の内容を変えようと、日常の行動を改めようと試みたが、無駄だった。
ページは彼の行動を先に知っており、彼が思いつくことすら記録されていた。
そして、徐々に健太の身には異変が訪れた。
友人たちや周囲の人々が、まるで彼のことを忘れていくかのように、彼に無関心になっていった。
いつの間にか、彼は誰からも声をかけられなくなり、孤独感が深まった。
周りは普通に生活を送っているのに、彼だけが取り残された気分だった。
ついに、彼の心は押し潰されるほどの恐怖に包まれた。
彼はこの本が、彼の人生を記録するのではなく、彼を切り離すためのものであることに気づいた。
「記」の力によって、彼の存在は薄れ、誰からも忘れ去られるような運命が待っていたのだ。
ある晩、彼はついに決意した。
本を閉じ、手放そうとした。
しかし、その瞬間、恐怖に襲われた。
その本は、彼が逃げることを許さないかのように、強く光り輝き始めた。
彼は目を閉じ、耳を塞ぎ、必死にその場から立ち去ろうとしたが、周囲はどんどん暗くなり、何も見えなくなった。
健太の目の前には、誰もいなくなり、ただ黒い本だけが残されていた。
その時、彼は思った。
この本が彼の人生を記録することで、彼の存在を消してしまうのだと。
彼はそのことを理解したが、手放すことができなかった。
運命に逆らえない無力感に苛まれながら、健太は永遠にこの本に囚われ続けることを避けられなくなった。
あの日、彼が見つけた本の中に、彼の運命が記されていたのだ。
彼の記憶が、灰色の雲に飲み込まれていく音が、静かに響いていた。