彼の名前は佐藤亮介、31歳の若手デザイナーであった。
普段は華やかなファッション業界で生きている彼だが、日常はストイックで孤独だった。
そんなある日、仕事の締切に追われ、心の余裕を失っていた亮介は、都会の喧騒から逃れるため、ふと昔からの想い出の場所へ向かうことにした。
それは、彼が子供の頃、家族と何度も訪れた山奥の古びた別荘だった。
亮介は長い道を抜け、別荘にたどり着いた。
その場所は、彼が記憶する限りではずっと変わらないままであった。
緑に囲まれ、ささやかな静けさが心を和ませる。
しかし、別荘の扉を開けると、薄暗い室内は不気味な静けさに包まれていた。
十数年ぶりに入ったその場所は、彼の記憶とは違っていた。
家具は壊れ、かつての華やかさはなく、埃にまみれていた。
亮介は、昔の思い出を探しながら部屋の中を歩き回った。
彼が一番好きだった窓際のテーブルの上には、彼の母が大切にしていた小さな花瓶が置かれていた。
しかし、驚いたことに、その花瓶は煤けた水の中で、黒く変色した花を咲かせていた。
信じられない光景に、彼は思わず目を逸らした。
その瞬間、彼の背後でドアが閉まる音が響いた。
振り返ると、誰もいない。
気のせいかと思い、彼は再び部屋を探索し始めた。
ふと、彼の目に留まったのは、物置部屋の扉だった。
かつては絶対に開けてはいけないと言われていた場所だが、「ルール」を破って、彼はその扉を押し開けた。
物置の中には、様々な物が散乱していた。
古い雑誌や壊れたおもちゃ、そして一際目を引くのは、黒い布で覆われた大きな物体だった。
それは、彼の母がかつて夢見ていた「華やかなドレス」と言われるものだった。
布をめくると、そこには彼の母が大事にしていた生地がぎっしり詰まっていたが、その中からは異様な光を放つ何かが感じられた。
「り…」と呟くと、亮介の耳元にひそやかな声が聞こえた。
それは彼の母の声にも似ていた。
その声に導かれるように、彼はドレスの生地を一枚一枚広げた。
すると、彼の目の前には恐ろしい光景が広がっていた。
生地のどれもが、過去の影を映し出していた。
そこには、彼自身が忘れた記憶や過去のトラウマが蘇り、焦燥感に駆られた。
亮介は急に心臓が高鳴るのを感じた。
「壊れる…」という言葉が頭の中を駆け巡る。
その瞬間、彼の後ろでドアが微かにゆっくりと閉まる音がした。
背後に気配を感じ、振り返ると、物置に徐々に薄らいだ影が現れた。
その影は彼の母に似ていて、彼女の表情はどこか奴隷のように苦悶している。
「お前が私の思い出を奪ったのか?」その声は不気味に響き渡った。
亮介の心に重いプレッシャーがのしかかる。
彼は恐怖から逃げ出そうとしたが、足が動かない。
影は彼を取り囲み、「逃げられない」と告げる。
その時、彼はまたあの花の姿を思い出した。
かつての華やかな思い出は、全ての壊れた夢と結びついていた。
亮介は、これまでの自分の行動が家族の記憶を踏みにじり、彼自身が孤独を招いていたことを理解した。
彼の心には、彼の存在が壊れてしまった瞬間を見せつけられた。
「この場所から出なければ、永遠に繋がり続けるんだ」と亮介は痛感し、意を決して影に向かって叫んだ。
「ごめんなさい!」その声は、彼の心の重荷を少しずつ軽減し、母の影も彼を押さえつける力を失っていった。
やがて、周りは再び静けさに包まれ、影はゆっくりと消え去っていった。
しかし、彼の心には、過去の思い出が常に残ることを感じる。
亮介は、自分の道を模索しながら、心の中で母の存在を抱きしめ、別荘を後にした。
彼の歩みは、華やかな世界から一歩踏み出すことへと向かっていた。