「見井の囁き」

井戸のある古びた村には、昔から不思議な噂が絶えなかった。
村人たちはその井戸を「見井(みい)」と呼び、決して近づこうとはしなかった。
それは、見る者を引き込んでしまう恐ろしい力を秘めているからだと言われていた。
時折、井戸の周囲に現れる薄暗い影に怯え、村の人々は通り過ぎる時も目を逸らすのだった。

ある時、都会から引っ越してきた若い女性がいて、彼女はこの村の神秘に興味を持っていた。
彼女の名前は沙紀。
好奇心旺盛な性格で、地方の伝説や怪談を集めることが趣味だった。
村の人々が「見井に近づくな」と警告する中、沙紀はその言葉を無視して井戸を訪れることにした。

夕暮れ、影が長くなる頃、沙紀は井戸にたどり着いた。
冷たい風が吹き抜ける中、井戸は静かに佇んでいた。
その周囲には誰の影もなく、ただ不気味な静寂だけが支配していた。
井戸の縁に立ち、慎重に中を覗き込んだ沙紀は、その暗闇の中に何か奇妙なものを感じた。
すると、不意に視界に動きが現れた。
水面が波紋を描き、まるで誰かが井戸の底から彼女を見ているかのようだった。

「誰かいるの?」彼女は問いかけた。
その瞬間、井戸の中から低い声が響いた。
「見ないほうが良い…」それは、かすれた少年の声だった。
驚いた沙紀は一瞬後ろに退くが、同時にその声に引き寄せられるようにさらに覗き込んだ。
明確に見えないものの、その底には何かが待ち構えている気配があった。

恐怖と好奇心に揺れる心の中で、沙紀はその声に従う決意をした。
「何が見えるの?教えて!」彼女の問いに対し、再び声が響く。
「見る者は、全てを知ることになる。それと同時に、全てを失う…」沙紀の心臓が高鳴った。
彼女は井戸の底を見つめ続け、その暗闇から何かしらの真実を見出したいと願った。

時が経つにつれ、彼女は異常な感覚に襲われ始めた。
その井戸の視線に、次第に意識が引きずられていく。
自身の意志が薄れていく感覚、彼女はただ井戸の存在に吸い込まれるように引き寄せられていた。
「沙紀、戻れ!」どこからともなく彼女の名を呼ぶ声がした。
周囲の景色がぼやけ、井戸の中から現れた影が近づいてくる。
やがて、その中から少女が現れた。
彼女の目は無表情で、恐ろしいほどに真っ直ぐ沙紀を見つめていた。

「私もここにいた…あの時、見てしまったから…」その少女は語った。
沙紀は言葉を返せず、ただ固まってしまった。
その瞬間、強い引力が彼女を井戸の中へと引き寄せ始めた。
少女の言葉が正しいのか、不安が彼女の心を締め付ける。
「私を信じて…一緒に見よう」と言われ、沙紀は反射的に後ずさりした。

恐怖から逃れようと必死になりながらも、彼女はその場所から離れられなかった。
少女は笑い、ゆっくりと近づいてきた。
「もう遅い。見てしまった私の運命を、あなたも背負うことになる…」その瞬間、沙紀は強く目を閉じ、自ら抗うが、意識は浸食されていくようだった。
視界が暗くなり、ただ声だけが耳元に響いた。
「戻っては来れないの、覚悟して…」

気がつくと、沙紀は井戸から離れ、村の外れに立っていた。
しかし、何かが変わった。
視線が背後から刺さるように感じ、振り返るとその看見は影も無い。
村人たちが言っていたこと、その全てが彼女の中で現実となっていた。
井戸の影響は、今も彼女を見つめ続けているのだった。

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