彼の名前は健太。
生まれつき視力を失った彼は、音や嗅覚を駆使して日常生活を送っていた。
暖かい春の訪れを待ち望む彼にとって、寒い冬は特に苦痛だった。
そんなある日のこと、健太は友人に誘われて、彼の祖父が所有する山奥の古い温泉宿を訪れることになった。
友人は「面白い話があるから、一緒に行こう」と誘ってきたのだ。
健太は興味を抱き、ひとりで寂しく過ごすよりも、友人との時間を楽しむことにした。
宿に着くと、外はひんやりとした空気が漂っていた。
暖房が効いたロビーに入ると、心が温まる思いがした。
しかし、すぐに友人が語り始めた怪談に、彼は心を引き締めた。
話によれば、この宿には「寒い場所」と呼ばれる特別な部屋が存在し、そこに泊まった者は必ず凍ったような思いをするという噂があった。
健太はそれがただの伝説か、あるいは実際に存在するものなのか、興味をそそられた。
「じゃあ、行ってみようか」と友人が言い出した。
健太は彼の声を頼りに、部屋へ向かうことにした。
古びた廊下を歩き、鍵のかかったドアの前にたどり着くと、友人が鍵を開けた。
ドアがきしんで開くと、内部からは一層寒気が漂っていた。
彼は身体が凍りつく思いを感じながら、足を踏み入れる。
部屋の中に入ると、圧倒的な静寂が支配していた。
視覚のない健太には、その静けさが逆に恐ろしいものに感じられた。
友人は彼を誘導しながら、部屋を探検する。
手探りで不気味な感触を確かめると、壁には古い絵がかかっていることがわかった。
それは冷たい風景画であり、彼の想像とは裏腹に、居心地の悪さを引き立てるものであった。
不意に、健太の耳に「寒い、寒い」という声が聞こえてきた。
友人が何かを言っているのだろうと思ったが、その声はまるで自分の内側から響いているようだった。
寒さが彼の体を突き刺し、心の奥にまで届いてくる。
彼は恐怖を感じつつ、「何かいるのか」と声を発したが、返事はなかった。
時間が経過するにつれ、冷気が次第に強まっていく。
友人が「もう帰ろう」と言った瞬間、ドアが外から盛大に閉まった。
二人の体に氷のような冷たさが染み込んできた。
瞬時に周囲の温度が急下降し、まるで雪山で遭難したかのような感覚に襲われた。
健太は心の中に広がる恐怖と混乱の渦に飲み込まれそうになった。
その時、彼の耳元で「見えないけれど……感じることができる」というささやきが響いた。
彼の過去の記憶がよみがえった。
生まれた時から目が見えず、周囲の人々からどう扱われてきたか、優しさと冷たい視線。
彼は孤独の中で成長し、その結果、自己を確立していった時期のことを思い出した。
寒さが彼の心に宿っていたのは、実は他者との繋がりを求める渇望だったのかもしれない。
それから、健太は冷静さを取り戻し、心の奥の闇と向き合う決意をした。
「過去の恐怖を乗り越えて、私はここにいるんだ」。
彼は自分自身に言い聞かせた。
寒さに耐えることで、自分を探し続ける決意が次第に熱を帯びていく。
その瞬間、景色が一変した。
温かい光が足元から染み渡り、身体が徐々に温まっていく。
友人の驚きの声と共に、ドアが再び開かれた。
外の世界へと導かれると、彼は居心地の良い暖かさに包まれ、自分の存在意義を改めて感じ取ることができた。
寒さの背後にあった自らの恐怖、それを乗り越えた先に、再び光が差し込んでいた。