「縁切りの古木」

止という名の小さな村は、長い間人々が静かに暮らす場所だった。
しかし、村の外れには一つの言い伝えがあった。
「え」という形をした古木があり、それに触れた者は自身との縁が切れるというものである。

村人の平(たいら)は、村の中で穏やかな毎日を送っていた。
彼は特別なことを望んではいなかったが、父親を早くに亡くし、母親と二人三脚で生活を支えていた。
ある日、平はふとしたきっかけで村の外れにある古木のことを耳にする。
「あの木に触れると、不思議な力を授かるらしいよ。」村の若者たちが笑い話のように語っていた。

興味を抱いた平は、真夜中に古木を見に行くことに決めた。
彼は周りの村人たちに迷惑をかけず、静かに案内されることもない夜道を進んだ。
月明かりの中、その木は静かに佇んでおり、まるで生きているように見えた。
平はその幹に手を伸ばし、感触を確かめるように触れた。
すると、瞬間、木の表面が柔らかく変わり、何か温かいエネルギーが流れ込んできた。
ほの暗い闇の中、平は自身の思い描いていた未来が叶うのではないかという期待で胸を高鳴らせた。

しかし、その感覚はすぐさま不安に変わった。
何かが彼の内側で揺れ動き、同時に心の奥底にあった懸念が浮かび上がってきた。
「縁が切れる」とは本当にどういう意味なのか、自分が一歩踏み出すことで何かを失うことになるのか。
平は思いとどまり、その場で背を向けて帰ろうとした。
だが、先ほどの温かさが今度は冷たく感じられ、まるで木が彼を引き留めているかのようだった。

翌日、平は普段通りの生活を始めたが、徐々に彼の周囲の景色が変わっていくのを感じた。
彼の母親がいつも出かけていない、村人たちも彼に視線を向けなくなっていく。
彼らの口からは「平」という名前が消え、代わりに「彼」という言葉で語られるようになった。
平の存在が、周囲の現実から薄れていくかのような感覚に襲われた。

さらに数日が過ぎると、彼は自分の物理的な存在すらも感じられなくなった。
不安を抱えた平は再び古木へと足を運んだ。
月の光の中で、あの古木は以前よりもさらに威圧感を増していた。
彼は心の中の縁を取り戻すために、もう一度その幹に触れてみることにした。

しかし、再び触れた瞬間、平の中に潜む闇が彼を包み込んだ。
言葉では表せない恐怖と孤独感が全身に纏わりつき、彼は叫びたくなった。
「私はここにいる!」その思いを声にしても、周囲には誰も反応しない。
彼は気がついてしまった。
自ら選んだこの道が、周囲との縁を完全に断ち切ってしまったのだと。

その晩、平はとうとう誰の記憶にもなくなってしまった。
村人たちの間では彼の名前も存在も消え、「あの古木からは不幸が生まれる」と言われるようになった。
止の村は、平という若者の存在を忘れ去り、その闇を抱え込んだまま静かに過ぎ去っていくのだった。
村人たちは古木を避け、もう二度と縁を結ぶことのないように日々を過ごしていた。

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