夜、星の明かりも薄暗く、静寂が重くのしかかる。
田んぼに囲まれた古びた村には、朽ち果てた木造家屋が点在していた。
村人たちは、長い間村を離れたようだが、たった一人、25歳の佐藤明は故郷に帰ってきた。
彼は都会での生活を捨て、穏やかな田舎の暮らしを選んだのだ。
夜が深まり、明は村を散策することにした。
さわやかな風が吹き抜け、古い家々の隙間から何かが囁くような気配を感じた。
辺りには人影がほとんどなく、すべてが静まり返っていた。
彼は不安を感じながらも、その静寂を楽しむことにした。
歩いているうちに、薄暗い小道の先にあった井戸のことを思い出した。
子どもの頃、友達と遊んだあの井戸、いつの間にか行くことが無くなっていた。
好奇心に駆られた明は、その井戸へ向かった。
井戸の周りには長い間放置されたような雑草が生い茂り、もはや人が近寄ることもないようだった。
明は井戸の淵に近づき、ゆっくりと覗き込んだ。
闇の深さに一瞬たじろいだが、何かを感じた。
水面は静かで、波一つ立っていなかった。
その時、明の心に薄れゆく記憶が呼び起こされた。
「いけない、井戸に近づいてはいけない」と子どもの頃に聞いた言葉が蘇る。
しかし、彼はその言葉の意味を思い出せなかった。
水は金色のように光り、彼を誘っているようだった。
不思議と恐怖が入り混じる感情を抱えながら、明は手を伸ばし、井戸の中に何かがあるのではないかと思ってしまった。
その時、突然、冷たい風が吹き、井戸の水面が揺れた。
明は驚き、後ずさりした。
すると、どこからともなく、ささやき声が聞こえた。
「助けて…」その声は、かすかに響き、まるで水底から叫んでいるかのようだった。
明は恐怖で心臓が高鳴り、逃げ出したい衝動に駆られた。
だが、足がすくむようにして立ち尽くしてしまった。
水の中に何かがいる。
人間のような形が、彼を見つめ返している気がした。
意を決して明は井戸に大声で呼びかけさせる。
「誰かいるのか?」
すると、急に声が大きくなった。
「私を助けて…」それはもう一度、何かを求める叫びだった。
その瞬間、井戸の水が波立ち、何かが浮かび上がってくる。
そこには、明の叫びに答えるように、薄く朦朧とした人影が現れた。
彼はその人影に見覚えがあった。
それは、彼が幼いころに行方不明になった友人、田中健だった。
「明…」彼の名前を呼ぶ健の姿は、どこか虚ろで、彼の目は絶望に満ちていた。
明は思わず井戸の淵に近づこうとしたが、「やめろ、近づくな!」と心が乗り移ったように叫び声が響いた。
健の目に宿る無気力と孤独は、彼の悲しみをそのまま映し出していた。
「ここは絶望しかない…助けてくれ、でも来てはいけない」と告げて、彼は水の深みに沈み込んでいった。
明は呆然とし、次第に理解した。
この井戸は、村の人々を誘い込み、その心を絶望で満たしていたのだと。
青ざめた明は、井戸から背を向け、全力で走り去った。
村の外へ、もう二度と東へ戻らない。
淡い光に包まれる彼の心の奥には、この村に隠された絶望の噂が残り続けるのだった。
夜の闇は彼を包み込み、この村のことは二度と知ることがない。