静かな午後、海辺の小さな町に住む漁師の一人、隆一は、日々の漁業からの帰りに、家の裏手にある庭で少しの間、ひと息つくことが習慣だった。
彼の庭には、代々受け継がれてきた古い桜の木があり、その周囲には色とりどりの花が咲き乱れていた。
だが、その日、隆一は庭に不穏な気配を感じていた。
日が沈む頃、ふと気がつくと、庭の桜の木の下に一本の糸が垂れ下がっているのを見つけた。
それはまるで、誰かが糸を垂らしているかのように、ゆらゆらと揺れていた。
隆一はその糸の存在に興味を持ち、近づいて手に取った。
すると、その糸はまるで生きているかのように、彼の手の中で動き出した。
思わず手を引っ込めた彼は、何か恐ろしいことが起きる前に、その糸を断ち切ろうと決意した。
だが、その瞬間、庭の空気が変わった。
風が冷たくなり、桜の木がしおれたように感じられたのだ。
隆一はその異変に気がつき、恐れを抱きながら糸を手放した。
すると、その糸は彼の手から滑り落ち、パッと広がった。
空に向かって吸い込まれるように上がっていく糸の先には、まるで空に引っ張られているかのように、人の影が見えた。
その影は明らかに彼に向かって手を差し伸べるように見えたが、隆一は恐怖に駆られ、その影を無意識に否定した。
「離れろ、私から離れろ!」と心の中で叫んだ。
影はその声に返しているわけではなかったが、隆一の言葉を無視して、糸は次第に彼の方に近づいてきた。
まるで過去の何か、大切なものが帰ってくるような感覚に胸が締めつけられた。
彼は急いで庭を離れ、家の中に戻ろうとした。
しかし、体が動かない。
まるで重い何かに押しつぶされているかのようだった。
その時、彼の耳に「助けて…」という声が聞こえた。
声の主は明らかに彼の知っている人だった。
隆一は恐怖と懐かしさに揺れ動きながら、その声の正体を尋ねた。
「誰だ、誰か教えてくれ!」
すると、声はゆっくりと形を成していき、彼の目の前に現れたのは、かつて彼が引き揚げた漁の中で亡くなった友人、和也の姿だった。
彼はそれを知っていた。
事故で失った友人が、まるで生きているかのように目の前にいる。
その視線は彼を見つめ、何かを訴えかけるようだったが、その言葉は彼に届かなかった。
隆一は混乱しながら、「和也、どうしてこんなところに?」と口にしたが、和也はただ静かに彼に迫った。
再び驚愕した彼は「もう帰ってこい、戻れ!」と叫んだ。
しかし、その声は通じなかった。
糸が和也と繋がっているのがわかり、その糸はただ強くなるばかりだった。
気がつけば、いつの間にか庭は静寂に包まれていた。
隆一はそのまま立ち尽くし、自分が何を選んだのか考えを巡らせた。
このまま和也を受け入れるのか、それとも彼の記憶の中に閉じ込めておくのか。
漁師として生きていく決意を再確認することにした彼は、和也が求めている助けが何なのかを探り始めた。
そして、彼は糸を断ち切ることができないまま、和也の影から離れようとした。
しかし、和也はその糸を手放さず、再び彼に近づいてくる。
その姿は徐々に消えていく糸によって引き寄せられ、隆一は逃れようと努力する。
彼の叫び声は空に吸い込まれ、何も届かない。
その夜、隆一は庭の中に一人ぼっちで過ごし、漁師としての責任とともに友を失った悲しみを抱え込み、動けぬまま時が過ぎていくのだった。
悲しみとともに、彼の心の奥底にある還してほしい想いは、いつまで続くのだろうか。
友人との「離れ」を受け入れなければならない現実が、彼の心に重くのしかかっていた。