その日、佐藤健一は古びた書店を訪れていた。
間口は狭く、薄暗い店内には、埃をかぶった本がところ狭しと並べられている。
健一はいつもとは違う本を求めて、ふと目に留まった一冊に手を伸ばした。
装丁は無機質で、タイトルも著者も記されていない。
ページをめくると、独特の雰囲気に包まれる。
その本は、実に奇妙な物語が詰まっていた。
ページを進めるごとに、健一はその物語に引き込まれていった。
内容は、かつて書かれた「書の界」と呼ばれる異世界についてだった。
その世界では、書が持つ力によってさまざまな現象が起こるという。
書に触れた者は、現実と異界の間に迷い込み、運命を大きく変える可能性があるというのだ。
興味を持った健一は、物語に登場する道具や呪文を実践してみようと思った。
家に帰ると、夜の静けさの中でその本を開いた。
何か特別な儀式が必要なのかと思ったが、ただ目を閉じて言葉を口にするだけで良いようだった。
彼は本に記された言葉を唱え、ゆっくりと目を開いた。
その瞬間、部屋の明かりが一瞬消え、周囲の空気が変わった気がした。
健一は驚いて振り返ると、部屋の壁が波のように揺らぎ始め、異世界の入口が見えた。
恐怖と好奇心が入り混じりながら、彼はその場所へと歩み寄ることに決めた。
薄暗い光景が彼を待っていた。
異界に足を踏み入れた瞬間、健一は目にしたことのない風景に圧倒された。
色とりどりの文字が浮かび上がり、空の彼方で光を放っている。
それらは彼に向かって踊るように動き回り、まるで生きているかのようだった。
健一は、その不思議な景色に心を奪われていく。
しかし、しばらくすると、彼はその世界がなんとも不気味であることに気づいた。
辺りには誰もおらず、静寂だけが広がっていた。
彼は自分の存在が、異界の中においてただの「書」として消えてしまうのではないかという恐れを抱くようになった。
周囲の文字たちは、彼に近づきつつあった。
「選ばれし者よ、何を求める?」と、響き渡る声が彼の耳に届いた。
どこからともなく現れたのは、書の形をした影だった。
恐怖に震えながらも、健一は言葉を返す。
「私は、ただの読者です。この世界のことを知りたいだけです。」
影は微笑み、彼の言葉を理解したように見えた。
「だが、知ることは選択を意味する。この知識が、お前の運命を変えることもあれば、奪うこともある。」その言葉に、健一は心が重くなるのを感じた。
書が持つ力は、時に恐ろしい現象をもたらす。
彼はまだ自分がこの世界にいることを楽しんでいたが、その背後に潜む危険に気づくべきだった。
彼は急いで何かを言おうとした時、体の力が抜け、周囲の文字が一気に群れを成し、彼の意識を飲み込んでいった。
薄暗い書店の中、健一は目を覚まし、壁に寄りかかっていた。
手にはあの本が握られている。
安堵と同時に、彼はその体験が夢であったのだと思い込もうとした。
しかし、彼の心の奥には、異界の声が響き続けていた。
「選ばれし者。お前はこの書によって新たな運命を切り開くことができる。」
その後、書店を訪れる度に健一はあの本に目を留めていたが、彼は決して再びその本を開くことはなかった。
彼は異界を知ったことで、現実の道を歩む選択をしたのだ。
恐れを抱きながらも、彼は少しずつ自分の運命を受け入れていった。
人々は時に、選ばれし者となることを恐れるものなのだ。
選択がもたらす影は、時に深く、そして恐ろしいのだということを。