「砂に埋もれた影」

宿の名は「砂の宿」。
古びたその宿は、誰もいないはずの山の中にひっそりと建っていた。
外観は色あせ、木の壁は所々剥がれ、小さな窓から中を覗くと、かつての繁盛を感じさせる家具が埃をかぶり、長い間人の気配が途絶えていることを物語っている。

ある晩、一人の若者、健太がその宿を訪れた。
友人とキャンプの予定を立てていた彼は、急な雨に見舞われ、宿の看板を見て思わず引き返したのだ。
宿の主は年老いた男で、無口な彼からは不気味さが漂っていたが、他に選択肢はなかった。
健太は宿に泊まり込むことにした。

夜が深まり、周囲は静寂に包まれた。
健太の寝室の壁には、薄い砂でできた装飾が施されていた。
よく見ると、そこには狼の姿が刻まれていた。
健太はその彫刻に不気味さを感じつつも、身体を横たえた。
だが、不思議なことに、彼はなかなか眠れなかった。
どこからともなく聞こえる風の音が、まるで狼の遠吠えのように感じられたのだ。

その夜の夢の中で、健太は一匹の狼に出会った。
その狼は人間の言葉を使い、「この砂の宿は、失われたものを求める者たちのために存在している」と語りかけた。
健太はその言葉の意味を理解できずにいたが、心の中で引っかかるものがあった。

翌日の朝、健太は宿の周囲を散策することにした。
山の中を歩くにつれ、彼はふとした瞬間、周りの砂に異様な形を見つけた。
それは狼の足跡のようにも見えるが、そこには他にも数多くの人の足跡が混在していた。
まるで何かがこの宿に引き寄せられるように、そして消えていくように感じられた。

その夜、再び健太は夢の中であの狼と遭遇した。
「あなたの中にある失ったものは何か」と狼は問いかけた。
健太はその質問に思い悩んだ。
何を失ったのか、思い出せない。
彼は日常生活の中で何かを犠牲にしてきたのか、ただの快適さに甘え続けていただけなのか。

夢から覚めた健太は、再び宿の主の元へ向かった。
だが、彼の姿は見当たらない。
宿の静けさが一層重く、まるで宿が彼を歓迎していないかのように感じた。
その瞬間、ふと彼の横を通り過ぎた砂が、足元にまとわりつくような感覚を与えた。
まるで何かが彼を取り込もうとしているかのようだ。

「逃げなければ!」と健太は思った。
しかし、足がすくみ、動けなくなる。
周囲には再び風が吹き荒れ、狼の声が聞こえる。
「失うことが恐ろしいのか、それとも失うことで新しい何かを得ることができるのか」と。

彼は再び夢の中に引き込まれた。
最初は夢だと思っていたが、やがてその世界の中で、彼は無限の砂の中に埋もれていくのを感じた。
周りにはかつて宿に宿泊していたであろう数多くの人の影が見え、彼らもまた迷っているかのようだった。
彼は自分の失ったものを掘り返そうと努力するものの、その砂は指の間からすり抜け、決して自分のものにはならなかった。

翌朝、宿の主が戻ってきた。
彼は一言も話さず、健太を外に追い出すように促した。
健太は無言で宿を後にし、清々しい山の風を感じながらも、心に重いものを抱えたままだった。
宿を離れるたびに、後ろからは不気味な声が聞こえてくる。
「失ってしまったものは、永遠に砂の中に埋もれ、誰の手にも届かないのだ」と。

彼が宿を去った後、その宿は再び静寂に包まれた。
一体、宿の中で何が起こっていたのか、彼にはもう二度と思い出せない。
失われたものは何かもわからず、ただただ夜の帳の中に消えていくのだった。

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