彼の名は健太。
東京の片隅に住む盲目の青年だった。
目が見えない彼は、感覚を研ぎ澄まし、静謐な日常を送っていた。
周囲の音や香りを頼りに、彼自身の世界を構築していた。
しかし、彼にとって最も気を付けなければならないのは、かつて彼の親友であった翔太の存在だった。
翔太は青年時代に、目が見えないことがいかに危険で孤独なことかを理解していた。
彼は健太に「君を守るために、俺がいつもそばにいるから」と何度も言っていた。
しかし、健太には彼の言葉が次第に、心の中でひとつの罠のように響いていた。
翔太の保護が本当に彼のためになっているのか、もはや疑問を抱くようになったのだ。
ある晩、高いビルの屋上で開かれたパーティーの誘いを受けた健太は、その場に出かけた。
周囲の構造物の音を頼りに、ゆっくりとパーティースペースへと進んでいく。
参加者たちの笑い声やカクテルのグラスが交わる音が次第に強くなる中、彼はその空間に違和感を覚え始めた。
「翔太はどこだろう」と健太は思った。
いつもなら彼がそばにいるはずだが、その日はなぜか彼の声が聞こえない。
暗闇の中、かすかな気配を感じ取る健太は、目の前にある様々な感覚を頼りに輪の中心へとやってくる。
人々は楽しそうに盛り上がっていたが、その雰囲気がどうにも他人事のように感じられた。
ふいに、彼の耳に違和感を覚える音が聞こえた。
それは微かな呼吸音。
健太は思わず息をのんだ。
「もしかして、誰かが自分を見ているのか?」と不安に襲われた。
彼はそのまま人の輪を離れ、屋上の端へと向かう。
そこで耳にしたのは、翔太の響く笑声だった。
しかし、それは最初の彼の気を引く声とはまったく異なり、どこか冷たく響いていた。
「健太、こっちにおいでよ。面白いことがあるから」と、その声が後ろから聞こえた。
彼は一瞬ためらったが、その声に誘われ歩き出す。
そして、次の瞬間、健太はその場所が危険だと気づく。
彼のいる場所は、屋上の端。
足元の感触が急に不安定になる。
彼の心臓が強く鼓動し、“なぜ助けてくれないのか”と翔太を思った発言が、まるで彼自身を罠に陥れるように響く。
「健太、しっかりして!私がいるから、何も怖がる必要はない」と翔太は言ったが、次第にその声が遠のいていく。
手元が狂い、回り道をして何度も倒れ込む健太は、やがて完全に失ってしまった。
視界も、音も、香りも、すべてが消えていく。
彼はただ眩しい光の海の中に浮かんでいるような感覚を感じた。
しかし、その瞬間に叫ぶ。
必死で「帰りたい」と思ったが、それはもう手遅れだった。
彼が知る世界、彼が感じるすべてのものが新たな次元に消え去ってしまった。
噂によると、そのパーティーの後、健太の姿は誰にも見つからなかった。
彼の存在はまるで、初めからこの世界にいなかったかのように、静かに消え去ったという。
翔太だけは、彼を守っているつもりのままで、誰かを引き込み、そして深い闇の中に隠されていく罠を肴に笑っていた。