「畳の陰に潜む無」

畳の上に座る友人、健二は、何かに取りつかれたように無言で目を閉じていた。
彼の表情は硬く、まるで何かを思い詰めているかのように見えた。
その姿を見ていると、隣にいた美沙は恐れを感じずにはいられなかった。
美沙は彼の友人であり、普段は明るい性格の持ち主だ。
しかし、今の健二には何かが違っていた。

その夜、健二は最近聞いたばかりの奇妙な噂を思い出していた。
地元の古い話に、かつて「無」という存在があったと言う。
それは、人の命を奪うことはしないが、他の何かを奪う力を持っているという。
彼はその存在を否定したい一方で、どこか心の奥にその恐怖が根を張っていた。

畳の上で静かに、ついに健二は口を開いた。
「美沙、俺はもう新しい自分になりたいと思っているんだ。でも、どうしても過去の自分がついて回る気がして。」彼の声には重みがあり、何か圧迫感さえ感じられた。

「何を言っているの?健二は健二だよ。」美沙は彼を励まそうとしたが、彼の目には光がない。
それどころか、そこにはまるで命を失ったかのような空虚さが漂っていた。
美沙は思わず身を引いた。
健二はまるで彼女の言葉を聞いていないかのように、畳をじっと見つめている。

その時、健二の口から驚くべき言葉が漏れた。
「俺は、もう一度『新』しくなるために、あの存在に会わなければならない。」美沙は彼の言葉を聞いて恐怖で凍りついた。
あの「無」に会うことが、どれほど危険なことか知っているからだ。

「やめて!それ以上、近づかないで!」美沙は声を張り上げた。
彼の異常な選択に抗おうとしたが、健二はもう意志を固めてしまっていた。
「いや、美沙、俺は行かないといけない。新しい自分になるためには、あの存在を受け入れなければいけないんだ。」

彼はそして、立ち上がり畳の上で何かを探し始めた。
その様子はまるで、何かに操られているかのように見えた。
美沙は恐れを堪え、彼に寄り添おうとした。
しかし、彼の視線はどこか別の世界に向いていて、すでに周囲の現実を失っているようだった。

やがて、健二は畳の下から一枚の古い紙を取り出した。
それは、地元の伝説が書かれた巻物のようなものだった。
「これが『無』への鍵だ」と言い、彼は目を輝かせてその紙を抱えた。
美沙は思わず手を伸ばした。
「それはやめて!危険よ!」

しかし、彼の手はすでに「無」を受け入れるための準備を整えていた。
突然、畳の色が変わり、部屋全体が暗くなった。
美沙は驚いて後ずさり、その場から逃げ出そうとしたが、彼女の足は動かない。
「健二、やめて!お願い…!」

その時、健二は彼女の視界から消えてしまった。
畳の上にただ一人、彼が残した紙だけが虚しく佇んでいた。
美沙は慌てて部屋を飛び出し、外に出た。
外の風はひんやりと冷たく、心の底から恐怖が押し寄せてくる。

その後、健二の姿を見た者はいなかった。
彼は新しき「無」の存在となり、命を奪われたかのように、遙か遠くの世界に消えていく。
美沙は、その夜以来、畳の上に健二の姿を重ねるたびに、何かが彼を奪ったことを感じずにはいられなかった。

人は変わりたくとも、すべてを手放す勇気が必要なのかもしれない。
命と引き換えに、新しき自分を手に入れるなんて、誰も望んでいないだろう。
でも、それができる人間もまた、存在するのだと美沙は思い知らされることとなった。

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