創は、一人暮らしのアパートに住んでいた。
広さは小さくとも、心の安らぎを求めて選んだその場所には、珍しいことに畳が敷かれていた。
柔らかな足元が心地よく、創はいつもそこで、静かな時間を楽しんでいた。
しかし、その安らぎの日常は、ある晩、奇怪な現象によって壊されることとなった。
ある夜、創が畳の上に座り、思索にふけっていると、静寂の中に微かな「え」と呼ばれる声が聞こえてきた。
その声に振り向いても、誰もいない。
ただ静まり返った暗闇の中で、畳だけが異様に明るく輝いているように見えた。
一瞬、何かの手違いかと思ったが、次第にその「え」という声は、創の心にこびりつくような執拗さを持っていた。
声の正体を知りたくなった創は、畳の上に耳を近づけた。
その瞬間、心臓が高鳴った。
畳の下から響く「え」は、ただの音ではなく、響くたびに創の過去が引きずり出され、突き刺さるような痛みを感じた。
彼の記憶の中に、忘れたいと思っていた出来事が次々と蘇る。
それは、親友との喧嘩や、恋人との別れ、夢を追う中で味わった挫折など、いずれも心を痛めた過去だった。
「もうやめてくれ」と、創は思わず声を上げた。
しかし、声は止むことなく続き、次第に創を追い詰めていった。
彼は立ち上がり、逃げ出そうとしたが、その瞬間、逆に畳が彼を引き戻すような感触を覚えた。
彼はその場に押し戻され、畳に身を投げ出すように座り込んでしまった。
「生きている限り、逃げることはできない。執着はあなたと共にいるのだから」と、声は笑い飛ばしているように聞こえた。
創の視界がぼやけ、彼は混乱した。
何かが自分の意識を支配し、畳の上での出来事が別の現実を紡ぎ出していく。
彼の過去が、その声に乗って舞い上がるように現れた。
あの頃、彼が大切にしていたものが、まるで生きているかのように浮かび上がってきた。
まるで時が戻ったかのように、彼はもう一度、親友との思い出を味わい、恋人の温もりを感じ、夢へと向かう希望を感じていた。
しかし、嬉しさと痛みが交錯し、次第にその感情に飲み込まれてしまう。
気がつけば、創は畳の上で、かつての生活と融合していた。
彼は笑い、泣き、怒り、喜び、すべての感情に再び向き合っていたが、次第に彼の身体から力が抜けていくのを感じた。
彼は、その感情という渦の中で、もはや突破口を見失ってしまったのだ。
再び「え」という声が響き渡り、その内容は身に染みるものとなった。
「執念はあなたを廻らせる。生きたいのなら、過去を受け入れるべきだ。」
創は、過去に縛られ、今の自分を見失っていることに気づいた。
彼は、思い出したくない過去を抱えているが、その代償に今を失いつつあった。
過去の自分を受け入れ、解放することで、今を生きる力を取り戻さなければならないのだ。
声が静まり、創はハッとした。
痛みで苦しむことを終え、彼は決意した。
畳の上に座り直し、深く息を吸い込んだ。
「私は、過去を背負って生きる。そのすべてを受け入れ、生きていく。」その瞬間、畳は優しい感触を与え、彼の心も徐々に穏やかさに包まれた。
それ以来、畳の上で「え」という声は聞こえなくなったが、創の心には新たな力が芽生え始めていた。
そして、彼は今度こそ、「生きること」の意味を理解していくのであった。