彼の名は健太。
健太は、村の外れにある古びたバー「狼の隠れ家」を訪れることが多かった。
村人たちは、このバーのことをあまり好ましく思っていなかった。
その理由は、バーの中でよく「音」の異変が起こるからだった。
誰もいない筈の店内から、奇妙な声や足音が響くことがあり、そのたびに不気味な気持ちに襲われるのだ。
だが、健太はそんな話を気にも留めず、友人たちと飲み明かしていた。
ある晩、金曜日の夜、彼はいつも通りバーに向かった。
友人たちと共に乾杯し、笑い声が響く中、彼は背中に何か不穏な気配を感じた。
この夜、いつもとは違って周囲が静まり返り、外の風の音すら聞こえないほどだった。
その時、突然、耳をつんざくような「音」が響いた。
健太は驚いて振り返ったが、誰もいない。
友人たちも不思議そうに顔を見合わせていた。
その「音」は次第に大きくなり、何かがBARの奥から近づいてくるように感じた。
バーの常連客である老女が静かに告げた。
「夜になると、あの音はいつも聞こえるのよ。」
その言葉に気が気ではなくなった健太は、友人たちと一緒に「音」の正体を確かめることにした。
バーの奥へ進むにつれ、異様な緊張感が高まっていく。
彼らの足音が響くたびに、どこかから耳障りな「い」という声が返ってくるようだった。
奥にある部屋の扉が微かに開いているのに気づいた健太は、思わず中を覗いた。
すると、そこにいたのは、人間の姿をした「狼」だった。
その狼は、不気味な目で彼らを見つめ、静かに口を開いた。
「生きている者には、辿り着けぬ場所だ。」
健太たちは、恐怖を抱きつつその場から逃げ出そうとした。
しかし、その瞬間、狼が一歩前に出て、「行ってはならぬ、ここに留まれ!」と吠えた。
彼の声は力強くもあり、また、異次元の響きが混ざっているようにも感じられた。
逃げようとした健太の目の前に「音」が強まり、何かが周囲から迫るような錯覚を感じた。
彼は、狼が何かをしようとしているのではないかと恐怖心に駆られたが、同時に不思議と惹きつけられるような感覚もあった。
友人たちが狼から目をそらさないようにしながら、彼らは互いに手を取り合い、慎重に後退していった。
だが、素早く動こうとした瞬間、狼が低い唸り声を上げ、立ち上がった。
彼の肉体は恐ろしいほどに大きく、まるでこのバーの存在そのものの象徴のようだった。
「生きている者がいずれ、ここで消えてしまうと知れ!」と狼は言った。
健太は、その言葉に強く引き込まれ、完全に動けなくなった。
しかし、友人たちの声が耳に入ってきた。
「健太、行こう!」彼らの呼びかけで、ようやく意識が戻った彼は、力を振り絞り、狼から逃れるべく外へと走り出した。
危うくバーの外に出たものの、振り返ることができなかった。
だが、運が良かったのか、彼らは無事だったつもりだった。
しかしその後、健太の心の奥には「狼」との遭遇が刻まれ、声が耳に残り続けた。
何度も「あの音」が耳に響き、夜になるたびに彼は彼女の言葉とビジョンに襲われるようになった。
村に戻ってからも、彼は二度とバーには近づかなかった。
それでも、あの夜の記憶と不気味な音は健太の日常を支配していき、何度も彼を夢の中に引き込み続けた。
そして、友人たちとの絆が次第に薄れていく中で、彼は孤独な願望を抱くようになった。
「生」と「死」の境界が「狼の隠れ家」にあることを知った彼は、永遠にその記憶から逃れられなかった。