彼の名は健太。
まだ十歳の彼は、夏休みのある日。
北海道の田舎に住む祖父母の家に遊びに来ていた。
祖父母の家は古く、庭には大きな木があり、その木の下には不思議な伝説が伝わっていた。
子供たちの間で語られることも少なくない、その伝説とは「ホに住む字の精霊」の話だった。
「字の精霊は、特に狂った言葉を好む。彼女が活動を始めると、その言葉をともなう出来事が次々と襲ってくる」というのがその内容である。
健太は半信半疑ではあったが、少し刺激を求めて、友人たちにその話を話してしまった。
友人の明美は、「それなら、私たちもその字の精霊を呼んでみようよ!」と言った。
子供たちは、その木の下に集まり、お互いに狂った言葉を叫ぶことにした。
「私は死にたくない!」や「この世に何の意味もない!」など、やがて子供たちの声は高まり、皮肉や恨みの言葉が飛び交った。
その瞬間、健太は急に冷たい風を感じた。
無意識に振り返ると、その木の幹には見知らぬ漢字が浮かび上がっているのが見えた。
「狂」と書かれているように見えた。
その瞬間、不安が彼の心を覆い、体の奥底に恐怖が忍び寄る。
「やばい、やめようよ!」と健太は叫んだが、友人たちは興奮していて、全く止める気配がなかった。
次の日、健太は一人で起きると、異変に気づいた。
下駄箱には明美の靴が無く、彼女が家に帰らなかったのだ。
地元の警察が捜索を始めたが、明美の行方はわからなかった。
彼女の失踪のニュースは、村全体を不安な空気に包み込んだ。
数日が経つと、次第に村の人々の間で「字の精霊の仕業だ」との噂が流れ始めた。
健太は罪悪感に苛まれた。
彼が言った狂った言葉が、友人の明美を連れ去ったのではないかと、夜も眠れぬ日々が続いた。
彼は自分の過ちを悔い、何とか明美を取り戻したい一心で、あの木の下に再び戻ることを決意した。
月明かりが薄く照らすその木の下で、健太は心を落ち着けて声を出した。
「ごめんなさい。明美を返して!」彼は心の底から叫んだ。
すると、再び冷たい風が吹き、木の幹にはまたもや字が浮かび上がった。
「生」と書かれている。
次の瞬間、目の前に不気味な影が現れた。
それは明美の姿に似ていたが、目は狂気に満ち、彼女とはまるで異なる雰囲気を纏っていた。
「お前が呼んだのか、健太。狂った言葉は楽しいものだろう?私が教えてあげる。」その声は、まるで複数の人間が同時に話しているように聞こえた。
恐怖に震えながらも健太は振り返った。
「明美じゃない!明美を返して!」彼は必死で叫ぶが、影は笑い声を上げて消えていった。
次第に健太の周りには奇妙な文字が浮かび上がり、それは「失」と書かれていた。
その字を見たとき、健太は絶望のあまり座り込んだ。
数日後、明美は見つかった。
しかし、村人たちの目に映る彼女は、不気味で冷たい視線をしていた。
明美は健太に向かって微笑んではいたが、その笑顔の裏には狂気が潜んでいた。
そして何より、彼女はまるで自分の意志を持たないかのように、ただ呆然と立っているだけだった。
それ以降、健太の心には重たい罪悪感が刻まれ続けた。
友人を失った責任を背負い、時折夜の静けさの中でうめく明美の声を耳にすることもあった。
彼は「字の精霊」の恐怖を知りつつも、その言葉を封じ込めることができなかった。
彼の心の中には、狂った言葉の影が残り続け、そして、彼自身も狂気の境界をさまよい続けた。