ある静かな夜、原に住む大学生の健太は、愛犬のハチと一緒に散歩をしていた。
近くの公園は明かりが少なく、月明かりだけが道を照らしている。
いつものように、ハチは元気に走り回り、健太の周りを跳ね回っていた。
「これからの季節は、虫が多くなるな」と健太は独り言を言いながら、ふと立ち止まった。
深い緑に囲まれたこの場所には、不気味な伝説があった。
数年前、この原の森の奥に住むと言われる「犬神」が、人や犬を引き寄せては、一緒に連れ去って後には戻らないという噂が広まっていた。
「まさか、本当にそんなことがあるわけないよな」と健太は笑い飛ばした。
しかし、心の奥底では、その噂に少なからず影響されていた。
当時のニュースや噂話が脳裏をよぎり、少しだけ不安になった。
時刻は深夜に近づき、散歩の時間が長引いていた。
公園の端に差し掛かると、ハチが急に立ち止まり、尻尾を下げて耳を澄ませている。
健太は不思議に思いながらも、ハチの行動を無視して先に進んだ。
その瞬間、どこかから「ワン…」というか細い犬の声が聞こえたような気がした。
「ハチ、何かいるのか?」と健太が尋ねると、ハチはその声に反応するように駆け出した。
健太は慌てて追いかけたが、ハチの速度にはついていけない。
まるで何かに引き寄せられるように、ハチは森の奥へ入って行った。
「待て、ハチ!」健太は叫んだが、ハチの姿はもう見えなくなっていた。
迷い込んだ森の中で、月明かりだけが頼りの暗闇に包まれている。
健太は心配になり、数歩進んでハチの名前を叫ぶ。
「ハチ、どこにいる?」
そんな時、再びかすかな「ワン…」という声が聞こえた。
それは前よりも近くにいるようで、健太は胸が高鳴った。
だが、その声には何か不気味さが混じっていた。
さらに足を進め、声を頼りに進んでいくと、薄暗い場所に到達した。
そこには古びた鳥居が立っており、その先には朽ち果てた小さな神社があった。
「まさか、ここが犬神の祠なのか?」健太は恐怖を感じながら、鳥居をくぐった。
中に進むと、やはりハチの姿は見えなかった。
しかし、地面には無数の犬の足跡が残されていて、その中央には薄暗い影が見え隠れしていた。
「ハチ!」と声を張り上げた瞬間、影が一瞬、姿を現した。
それは何かの生き物のようで、目は赤く光っていた。
健太は恐怖で身動きが取れなくなった。
その存在は犬神そのものであり、まるでハチを待っているかのように見えた。
その時、ハチが突然、健太の背後から飛び出してきた。
「ワン!」と吠えるハチの姿に、健太は安心した。
しかし、犬神は動かず、彼らをじっと見つめていた。
まるで「犬が選ばれる瞬間」を待っているかのように。
「ハチ、こっちに来い!」健太は急いでその場から逃げようとした。
しかし、氷のように凍った空気に包まれたようで、全く動けなかった。
ハチは何かに引き寄せられるようにその場から動けずにいる。
健太の心臓が締め付けられるように苦しくなり、思わず叫び声を上げた。
「もう悪戯はやめろ!」その瞬間、犬神の姿が一瞬ぼやけ、ハチの姿に重なった。
まるで運命が交錯するかのように、ハチはその影に吸い込まれるようにして消えた。
健太は叫び声を上げ、悲鳴が森に響き渡った。
それ以来、健太はハチを探し続けている。
しかし、森の奥からはその声を聞くことはもうできなかった。
彼の記憶の中には、ハチの姿と、あの不気味な犬神の影が永遠に残り続けるのだった。
犬神の話を笑っていた自分を今は恨むばかりだと、健太は何度も思うのだった。