「焰の宿」

静かな山あいに位置する宿、「山荘えにし」。
彼はその宿に取材のために訪れていた。
松本という名のフリーライターで、宿の古い歴史や、かつて火事で命を落とした亡霊についての記事を書くのが主な目的だった。
宿自体は趣のある造りで、主人の人柄もとても温かい。
しかし、その宿には一つの禁忌があった。

「火を見てはいけない」と宿の主人は言った。
その言葉に込められた意味を、松本は深く考えずにいた。
彼は取材を進める中で、その禁忌の背後にある恐ろしい伝説を知ることになる。

それは、十年以上前に起きた火事だった。
宿の一角で火が放たれ、宿泊客の一人が逃げられずに焼け死んだという。
宿の主人はその日、異常な熱を感じたと語るが、どうして火が発生したのか――未だにその謎は解けていない。
宿泊客の中には、火を見てしまった者たちが多かった。
それ以降、彼らは不幸な目に遭い、その多くが宿を訪れたことを後悔したという。

取材を終え、松本は宿の周囲を散策していた。
そのとき、ふと焚火の不気味な光が目を引いた。
宿の裏手、森の奥深くからかすかに見える炎。
その温もりに引き寄せられるように、松本は足を進めた。
心のどこかで「見てはいけない」と思いつつ、彼は無言の誘惑に抗うことができなかった。

不思議なことに、近づくほどに火の光が次第に強くなり、彼の中にかつてない興奮を掻き立てた。
這うようにして木々を抜け、松本はついに焚火の炎の前に辿り着いた。
そこには、焚火を囲むようにして無数の人影があった。
それはかつての宿泊客たちだった。
彼らはどこか焦燥感を漂わせており、何かに抗うかのように手を翳していた。

「助けてくれ……放してくれ……!」

彼らの声が耳に届き、松本は驚愕した。
自らの命を消すために火を見た者たち、そして彼らは永遠にこの火の恐怖から逃れることができないのだ。
目に見えない手が彼の意識を掴み、逃れられない運命に巻き込もうとした。

その瞬間、松本は少しずつ地面に引かれる感覚を覚えた。
彼の過去が次々と思い起こされ、焚火の中にいる彼らの姿を重ね合わせる。
彼もまた、何かを放ってしまった過去を持っていた。
だが、彼はこの悪夢から逃れるためには何が必要かを理解していた。

「遺族に謝罪しなければならない。火を見てはいけなかったと、私は知るべきだった!」

心の奥底で燃え続ける後悔の炎を抱き、松本はついに立ち上がりその場を離れた。
小さな手を振り切りながら、彼は宿に戻る道を探し始めた。
だが、その中で彼は不思議な感覚を覚え、何かに力を吸収されるような感覚がした。

宿に戻ると、松本は宿の主人に全てを話した。
主人は悲しい顔で頷き、宿の過去と禁忌について語った。
その言葉に、松本は今さらながら霊たちの無念を理解した。

夜が明け、最初の光が宿に差し込む。
松本はもう一度宿の周りを見渡すと、宿の一角から微かな炎が見えた。
それは、彼を呼ぶように揺らめいていた。
松本は過去の記憶を振り返り、誓った。
「私はこの宿の歴史を記録する。火を恐れるのではなく、真実を伝えるために。」

それ以降、松本は夜の火を見ないよう努め、ただ宿の物語を語り継ぐことにした。
悪の存在から逃れるためには、過去を忘れず、次の世代へと繋げていくことが最も重要だと認識したのだ。
彼が選んだ道は、今なお多くの人々に物語として語り継がれている。

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