「火鉢に映る過去の影」

小さな町の外れに位置する「秘亭」という小さな茶屋は、あまり知られていない存在だった。
昼間は穏やかな日常が流れていたが、夜が訪れると、そこにはある噂が囁かれるようになる。
茶屋の主人である真紀は、普段は温和で落ち着いた女性だったが、茶屋の奥の部屋にだけは近づかないという掟を、彼女自身がひっそりと守っていた。

ある日、青年の健一が友人とともに茶屋を訪れることになった。
田舎の独特な風情に魅力を感じ、彼は観光気分でその場に身を置いていた。
しかし、友人たちが真紀にその奥の部屋について尋ねると、彼女の表情が一瞬固まり、焦燥感が漂った。
「その部屋には絶対に入らないでください」と言い残し、真紀はその場から去っていった。

何があるのか興味が湧いた健一は、友人たちと共にその奥の部屋を探索してみることにした。
周囲は静まり返り、茶屋のかすかな明かりが不気味に影を伸ばしていた。
暗い廊下の先には、薄い障子戸があった。
健一がその戸を開けると、驚くべき光景が広がっていた。

その部屋は、かつての華やかさを残しながらも、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。
そして、真ん中には丹念に磨かれた火鉢が置かれ、そこには赤々と燃える火が揺れていた。
なんだか懐かしい気持ちに包まれた健一は、ついその火に手をかざしてしまった。

その瞬間、火が鋭く跳ね上がり、彼の手を包み込むかのように燃え盛った。
友人たちは驚き、急いで彼を引き離そうとしたが、火はまるで意志を持ったかのように、健一を引き寄せた。
火を見つめた彼の視界が揺らぎ、まるで異次元に引き込まれそうになる。

「これは何だ……?」健一は心の中で呟いた。
火が高く舞い上がり、彼の目の前に一瞬の幻影が浮かび上がる。
その中には、過去の笑顔を持つ人々がいた。
彼らは薄暗い影の中から声を発し、「私たちを忘れないで」と囁いていた。
そして、火の中にはかつての記憶が織り交ざり、彼を取り囲んでいた。

「なぜ、私を……引き寄せる?」健一は混乱していた。
真紀は何を隠しているのか、そして、この火は一体何を意味しているのか。
真紀が語った言葉が、彼の心の中で反響していた。
「その部屋には火が灯る時、人の心の真実が現れる。目を背けてはいけない」と。

火に包まれた彼は、次第に自らの内面を直視することになった。
心の底に押し込められた恐れや悲しみ、そして誰にも言えなかった本当の願いが、火の中で次々と浮かび上がった。
その中には、ずっと忘れかけていた家族の顔や、友人たちと交わした笑い声があった。
ついに、彼はその思いを受け入れることができ、胸の中の重りが少し軽くなるのを感じた。

「もう離れない……。もう一度、彼らを抱きしめたい。」健一は心の中で誓った。
その時、火の勢いが一瞬静まり、彼を囲んでいた幻影たちも微笑みを浮かべて薄れていった。
周囲に漂っていた恐怖は消え、彼の心には穏やかな安らぎが訪れた。

健一が友人たちの元に戻ると、彼はその体験を語ることに決めた。
火の魔力も、過去の悲しみも、今はもう恐れるものではなく、自分が進むべき道を照らしてくれるものであると。
真紀の口が引き締まり、彼は微笑みを返した。
茶屋は静まりかえっていたが、彼の心には新たな希望が灯っていた。

それからしばらく、健一は「秘亭」に通うようになり、彼自身の真実を受け入れていった。
茶屋の奥の部屋は、時折奇妙な火が燈ることもあったが、今回は何も恐ろしいものではなかった。
人々の心の中に潜む光を見つけるための場所として、その存在を守っていくことを決意したのであった。

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