深い夜の静寂が広がる郊外、古びた「湖の家」と呼ばれる民宿がある。
その宿は、数十年前に建てられたもので、周囲は鬱蒼とした木々に囲まれ、湖が近くにあるため、常に湿気を帯びた空気が漂っていた。
民宿の主人は年老いた夫婦で、彼らはこの町から来た旅行者たちを暖かく迎え入れ、宿の歴史や湖の伝説を語って聞かせることが好きだった。
ある晩、若い女性がその宿を訪れることにした。
名は麻衣。
都会の喧騒から離れたくて、静かな場所で心を落ち着けたいと思っていた。
彼女は宿に着くと、ホッとした気持ちで満たされるのを感じ、すぐに宿の主人に温かい紅茶を提供された。
宿の中は明るく、飾り付けられた古い写真が壁に並んでいたが、その中には人々の笑顔が映っていた。
宿の主人は麻衣に、湖にまつわる古い話を語り始めた。
それは何世代も前に、湖で事故に遭った家族の物語だった。
親子が湖で遊んでいる最中、突然の嵐に襲われ、悲劇が訪れた。
その後、湖の水が様々な現象を引き起こすようになり、人々はその湖を恐れ、近づくことを避けていると言った。
麻衣は興味を抱き、話を聞きながらも不安な気持ちが心の奥に芽生えてきた。
彼女はその晩、古い写真が飾られた壁を見つめながら、しばらく宿の空気に合わせて自分を落ち着けようとした。
しかし、何かが彼女を引き離そうとしているように感じた。
その夜、麻衣は夢を見た。
夢の中で、湖の底から何かがうごめいていた。
水が波打つ音と共に、繰り返されるうめき声が聞こえてきた。
「助けて…助けて…」と。
恐れを抱きながらも、麻衣はその声に引き寄せられ、湖の岸に立っていた。
そこには、彼女が見たことのない他人がいた。
彼女の叔父が死んだときの顔をした男性だ。
一瞬、彼女はその人を見失った。
しかし、すぐにまた現れ、「麻衣…私を思い出して」と耳元で囁くのだった。
目が覚めると、麻衣は明け方の薄暗い陽射しに包まれていた。
夢の中の声が頭の中にこだましている。
どうして、見知らぬ人の夢を見るのだろう。
麻衣は不安を抱えつつも、彼女は湖に向かうことに決めた。
水面は穏やかで、まるで何も起こらなかったかのように微笑んでいるようだった。
しかし、心のどこかには不穏な予感が残っていた。
湖の岸に立つと、昨晩の夢の中で目にした男性の姿が再び思い浮かんだ。
なぜか、彼のことを話したくなり、湖に対して「あなたは誰なの?」と問いかけてみた。
すると、湖から冷たい風が吹き、その瞬間、目の前に水面が揺らぎ始めた。
まるで誰かが浮き上がろうとしているかのように。
麻衣は一歩後ずさりながらも、思い切って答えた。
「私はあなたのことが知りたい。誰なのか、そしてどうしてここにいるのか教えてください」と、声を震わせながら湖に向かって叫んだ。
すると、水面が静まり、彼女の目の前に現れた影は、あの男性だった。
「私はこの湖に囚われている者だ」と、彼は穏やかに語り始めた。
「数十年前、この湖から助けを求めたが、誰も私を憐れんでくれなかった。私の名前を知る者はいなくなったが、私の思いは今もこの水に宿っている。」
麻衣は彼の話を聞きながら、心の中にあった不安が和らいでいくのを感じた。
「申し訳ありません。あなたを忘れさせてしまったのは、私たち人間の不注意です」と彼女は言った。
「私があなたの話をみんなに伝えます。決してあなたの存在を忘れません。」
彼は穏やかに微笑んで、「ありがとう、私の思いをわかってくれる人がいるとは思わなかった」と言った。
そして彼の身は水面に溶けていくように消えていった。
麻衣はその姿を見送りながら、心のどこかに温かさが残った。
それ以降、麻衣は町に帰り、湖の物語を語り続けた。
人々は彼女の話に耳を傾け、忘れ去られた悲しみを抱えた影に思いを寄せるようになった。
そして、時間が経つにつれ、湖は彼女の物語と共に静かに流れる水に包まれ、やがて誰もがその存在を思い出すことができる場所に変わっていった。