浮かぶ月が映る静かな湖。
その湖は、周囲の山々に囲まれ、長い間人々の手が届かない場所にあった。
そこでの出来事は、少しずつ村の外へ外に漏れ出し、語り草となっていた。
ある晩、村に住む耕介は、友人たちと共にこの湖でキャンプをすることに決めた。
彼らは焚き火を囲みながら、怖い話をすることを楽しみにしていたが、耕介はただの暇つぶしにすぎないと思っていた。
神秘的な湖の話が多くあるなかで、「湖の向こうで人が浮かんで見える。近づくと消えてしまう」と言う噂が耳に残っていた。
「何が浮かんでるんだろうな?」友人の一人が興味本位で聞くと、周りは驚くように彼を見た。
「それは、小さな女の子らしいよ。彼女はかつて湖で泳いで溺れてしまったらしい。」耕介はその答えを冗談めいて返すが、何故か心の奥では不安を感じた。
夜が更けるにつれ、友人たちは次第に眠りに落ちていき、耕介だけが目を覚ましていた。
焚き火の音が静かに消えかけ、月の光が湖面を照らしていた。
その瞬間、耕介の目に何かが映った。
湖の向こうに、確かに小さな女の子の影が浮かんでいた。
心臓が急激に鼓動を増し、思わず息を呑んだ。
彼は、好奇心に駆られて湖のほとりへ足を運んだ。
水面に近づくにつれ、浮かぶ姿は明確に見えてきた。
白いドレスを着た女の子が、無表情で湖面を見下ろしていた。
耕介は「大丈夫?」と声をかけるが、女の子は何も答えず、ただ彼を見つめている。
次第に、彼の体は女の子に引き寄せられるように感じた。
恐怖を忘れ、自らの足で湖へ向かう。
水が冷たく肌に触れる感触があり、彼はますます深く進んでいった。
しかし、女の子はただ静かに浮かんでいるだけだった。
「己を見つめる時間だ」という不思議な声が耳の奥で響いた。
耕介は、自分の過去を思い出していた。
友人と過ごした楽しい時間、家族との思い出、そしていつの間にか失った数々のもの。
何かが彼の中で目覚め始めた。
その思い出が、情けなくも彼を責めているように感じた。
共闘の時代がありながら、耕介はいつの間にか自分のことしか考えなくなっていた。
そして、彼は逃げ出すようにして普段の生活に埋没し、結局大切なものを忘れてしまったのだ。
それを思い知らされ、胸が締め付けられるような苦しみが訪れた。
湖の底から、その女の子が微笑んでいるように見えた。
「私を忘れないで」と、彼女の声が響く。
自らの罪を感じながら、耕介は絶望的な気持ちで水の中に沈み込んだ。
自分を見つめ直す作業は、もはや逃げられない現実となっていた。
友人たちが目を覚まし、彼を探して湖の辺りを呼ぶ声が聞こえた。
しかし、その声は宙に消えていく。
耕介はもう戻れなかった。
女の子の姿は、今や彼の心の中に霊となって刻まれている。
「そうか、私を忘れないための代償なのか」と彼は理解した。
月光が湖面を照らし続け、その姿は水面に浮かぶ彼を映し出していた。
耕介の存在は、まるで女の子と同じように湖に吸い込まれるかのように消えていった。
その瞬間、彼は理解した。
浮かぶ月の影に隠れた、深い己の闇を。
この湖は、浮かぶ月だけでなく、己の思い出を映し出す場所でもあったのだ。