「湖の囁き」

かつて、青い山々に囲まれた小さな村に、静かな湖があった。
その湖は、漁師たちや住民にとって特別な場所であり、特に夏の夜には多くの人々が集まり、自然の美しさを堪能していた。
しかし、その湖には不気味な噂が広がっていた。

村の若者、健二は、夜の湖の神秘的な美しさに魅了されていた。
ある日、彼は友人の裕子を誘って、夕暮れ時に湖へ向かうことにした。
二人は日の光が沈む中、静けさに包まれた山道を進んでいった。

「なんだか、湖が呼んでいるみたいだね」と健二は言った。

「本当に? でも昔から、あの湖には近づかないほうがいいと言われているよ」と裕子は答えたが、彼女の目には好奇心が宿っていた。

湖に着くと、そこには美しい景色が広がっていた。
しかし、日が沈むにつれて、空は暗くなり、冷たい風が吹き始めた。
二人はその空気を感じ取りながらも、暗闇の中に映える湖の美しさに見とれていた。

突然、湖の水面が波立ち、何かが浮かび上がった。
二人は驚いて後ずさりした。
そこに現れたのは、何かの影だった。
それは黒い霧のようなもので、徐々に形を成していく。
裕子は息を呑み、健二は混乱した表情を浮かべた。

「これ、何かの振り? 魚が跳ねているのかな?」健二は無理に笑顔を作ったが、体が震えていた。

「わからない… でも、そろそろ帰った方がいいんじゃない?」裕子は不安を隠せずに言った。

健二はそう思いながらも、もう少しだけ湖を見つめ続けたいと思った。
彼の目の前で、その影はますます大きくなり、形を持った人影のように見えてきた。
裕子はもう我慢できず、「もう行こう!」と叫んだ。

そのとき、影から低い声が聞こえた。
「逃げないで…」

二人は思わず振り返り、湖の周りを走り出した。
裕子は後ろを見ると、その影が水面を滑るように追いかけてくるのが見えた。
彼女は恐怖に駆られた。
肥大する恐怖が二人の足を速めさせた。

「健二! あれ、あれが何かわからないけど、振り切らなきゃ!」彼女は叫んだが、その声は彼女自身の不安を強めるのだった。

「逃げろ!」健二が叫びながらも、心のどこかでその影に引き寄せられる思いがあった。
彼は裕子に手を伸ばし、さまよう気持ちを堪えながら、山道を全力で駆け上がっていった。

影は、二人の後ろで急速に迫っていた。
その時、健二はふと振り返ることにした。
驚くことに、そこには影が彼らを追うのではなく、静かに水面で揺れている姿が映っていた。
しかし、それは立ち止まることなく、彼の心に囁くように続けていた。
「忘れないで…私を…」

恐怖が増し、彼らはさらに早く逃げた。
山道を駆け上がり、とうとう村の入口まで戻ると、二人は肩で息を吐きながら振り返った。
しかし、影はもう見えなかった。
湖の静けさと、月明かりだけが二人を包み込んでいた。

その夜以降、健二と裕子は湖の話をすることはなかった。
しかし、心の中には常に、その湖での出来事が残り続けていた。
そして、村の人々が語る噂が確かであったことを、彼らは身をもって知ることとなった。
時折、彼女の声が響くような気がして、健二は彼女の存在を忘れないように、心の中で決意したのだった。

タイトルとURLをコピーしました