「湖の呼び声」

夏のある夜、静かな町の外れにある湖の近くに立つ古い小屋に、健太という青年が訪れた。
彼は子供の頃からこの町に住んでいたが、最近心に浮かぶ奇妙な夢の影響で、この小屋に来る決心をしたのだった。
夢の中で、彼は湖の水面に映る影を見るという体験を繰り返していた。
その影は、彼を呼んでいた。

小屋は周囲の木々に覆われ、薄暗い雰囲気を漂わせていた。
健太は少し身震いしながらも、好奇心を抑えられず小屋のドアを開けた。
奥に進むと、ほこりにまみれた家具が散在し、外の静けさが耳に響いた。
明かりはほとんどなく、月の光が細い隙間から漏れ込んでくる。

彼は小屋の中を慎重に探索し、壁に積み上げられた古い本や、途切れ途切れに描かれた絵を見つけた。
その中には、湖に生息する「遠の霊」と呼ばれる存在を描いた一冊の本があった。
それによると、霊は湖の水面に現れ、視線を持つ者にだけ姿を見せるのだという。
その霊は、失われたものを求める者を誘い、決して戻らない道へと導くと伝えられていた。

健太の興味がますます掻き立てられた。
彼は本を閉じ、湖の近くへと足を運ぶことにした。
小屋を出ると、満月が照らす湖が、まるで彼を待っていたかのように輝いていた。
水面には、月の光が揺らぎ、幻想的な景色を作り出していた。
彼は湖の岸に立ち、夢の中で見た影がどこにいるのか探ろうとした。

しばらく静かに見つめていると、突然水面が波立ち始め、そこから一つの影が浮かび上がった。
健太は心臓が高鳴り、後ずさりしそうになったが、好奇心が彼をその場に留まらせた。
そして、その影は次第に明確な形を持っていく。
手足を持ち、彼の方を向いていた。

「健太…」影は言った。
その声は、耳元で囁くように響いた。
まるで彼の名前をずっと待ち続けていたかのように。
健太は恐怖を感じながらも、その声に心引かれていた。
「あなたは、私を求めているのですね?」

影はさらに近づいてきた。
彼は、逃げたいと思ったが、同時にその影が何を求めているのか知りたいとも思った。
影は彼に手を差し伸べ、「私のところへ来るのです。あなたが見失った心の光を取り戻すために、私と共に行きましょう」と言った。

目の前にいる存在は、確かに人の形をしていたが、その目は空虚で、深い闇を孕んでいるようだった。
健太の中で恐怖と好奇心がせめぎ合っていた。
「私の光を求めるなら、私の手を取るしかありません」と影は再度誘った。

その瞬間、健太は思い出した。
彼は過去の恋人を亡くし、心にぽっかりと大きな穴を抱えていた。
その影は、彼が知る最愛の人の姿に似ていたのだ。
彼は自分の心がその影に引き寄せられ、意識が遠のいていくのを感じた。
「助けて…」彼の心の中で叫んだが、体は動かなかった。

影の手が彼の指先に触れると、ひんやりとした感覚が広がり、彼はそのまま水面に引き込まれそうになった。
「私と共に行くのなら、永遠に失われることになる」と影は冷たく告げた。
健太はその言葉を聞き、冷静さを取り戻そうとした。

彼は深呼吸し、はっきりと言った。
「私はそれを望まない。過去を背負いながら生きていく。あなたの手を取ることはできない。」その言葉が発せられると、影は一瞬驚いたように立ち止まり、その後、ゆっくりと後退していった。
水面が再び静かになり、彼から遠ざかっていく。

健太はそのまま立ち尽くし、静かに湖の岸に立つ。
影は消えたが、彼自身の心の中には、失ったものの重みが残っていた。
しかし、彼は逃げなかった。
自分の内面に向き合うことで、新たな一歩を踏み出す覚悟ができたのだ。
彼が帰るべき場所は、あの小屋でも、湖でもなく、自分自身の心の中に存在しているのだと。

その夜、月明かりの下で湖の静寂を感じながら、健太は過去と向き合う決意を新たにした。

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