「深淵の契約」

漁村の小さな町に住む直樹は、漁業一家に生まれ育った。
父親から受け継いだ漁師の技術で、彼は毎日海に出向き、家計を支えていた。
だが、近年の漁獲量の減少に悩まされる町は、直樹にも重いプレッシャーを与えていた。
そんなある日、彼はふとしたことから町の昔話に興味を持つことになった。

町には「記」の言い伝えがあった。
それは、昔、海に棲む「異」なる存在に漁獲の恵みを乞い求めた村人たちが、大きな犠牲を払うことになったという話だ。
村人たちはその海で「焉」と呼ばれる力を持つ存在と契約を結び、豊漁の代償として、毎年一人の漁師を捧げることになった。
しかし、その存在を直視した者は、惨たらしく命を落とすと言われていた。

直樹は、この話に興味を抱きながらも、同時に恐れを感じていた。
彼は「記」に残るこの恐怖が、彼が直面している現実となんらかの関係があるのではないかと思い始めた。
そして、漁獲量が減少した理由を知るために、海の深淵に潜る決意を固めた。

ある晩、直樹は夜の漁に出かけた。
月明かりの下、海は静まり返り、彼の心に不安と興奮が交錯していた。
漁を続ける中、彼は何か異様な感覚に襲われた。
まるで海から何かに見透かされているような、そんな気配だ。
すると、ふと網に引っかかる強い感触があった。
直樹はそれが大型の魚だと思い、全力で引き上げようとした。

引き上げると、そこには魚ではなく、異質な形状をした何かがいた。
それはまるで海藻のようで、しかし生物のようでもあった。
直樹はその形を見つめながら、心の中で恐怖が広がっていくのを感じた。
その瞬間、彼の脳裏に「決」の言葉が響いた。
「契約を結べ」と。

彼は躊躇った。
そんな契約を結ぶことで、自分の命が危険にさらされるのかもしれない。
しかし、彼の心のどこかには「記」された古い伝説が影を落としていた。
漁業を取り巻く厳しい現状を考え、ついに彼は決意する。
「もし、これが救いになるのなら」。

直樹はその異物に向かって言った。
「豊漁を約束するなら、私の命を捧げる覚悟がある」と。
すると、異形の存在は静かにうなずき、海の水は彼を包み込んだ。
冷たい感触が体を走り抜け、不思議な力が直樹の脳裏に広がる。

次の朝、村は驚くべき漁獲に恵まれた。
直樹はその日の漁に出ても、これまでにない量の魚を網にかける事ができた。
しかし、心のどこかで不安がもやもやとくすぶっていた。
彼は過去に口にした契約が、どこかで彼をずっと見ているのではないかと思い、恐怖で夜も眠れなくなった。

そして、月日が流れるごとに、漁獲は毎回増え続けたが、直樹の心にかつての幸せな日々が消えていくのを感じた。
村人たちの歓喜が、彼の胸を締め付ける。
自分が「記」の中で生け贄になったという意識と、その影響で仲間たちが豊かさを享受していることの矛盾に悩み、彼は苦しんだ。

次第に、彼は海の恐ろしい存在に引きずり込まれる感覚を覚えた。
そしてある夜、直樹は再び海に向かう決心を固めた。
その時、彼は無数の魚たちが集まり、まるで彼を導くように水面を跳ねているのを見た。
彼は心の底から叫ぶ。
「この契約を破壊してやる!」

海に飛び込むと、水中から迫る暗い影が彼を取り囲んだ。
直樹は必死に潜り続けるが、異形の存在が再び彼の心を侵食し、恐怖と絶望が募っていく。
最後の瞬間、直樹は一つの決断を下した。
自らの命を投げ出し、この呪いから村を解放することだった。

彼の心の中に希望が生まれ、海に放たれると同時に、その影は変化し、束縛から解き放たれた。
深い静寂が海を包み込み、村は漁獲の恵みを失うことになったが、直樹の犠牲によって恐怖からは解放された。
彼の名前は町の「記」となり、漁師たちに語り継がれることとなった。

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