密は、東京都心のビルが立ち並ぶ繁華街に、少し薄暗いバーを営んでいた。
彼女はお酒を作ることが得意で、疲れたビジネスマンや悩みを抱える若者たちの話を静かに聞きながら、日々を送っていた。
そのバーは決して広くはなく、壁には古びた写真やお酒の瓶が並んでいる。
密はその空間が好きだったが、何か奇妙なものを感じずにはいられなかった。
不気味な感覚が、彼女の心の奥に常に潜んでいたのだ。
ある夜、いつも通り営業をしていると、一人の男性がバーに入ってきた。
彼の名前は春樹。
彼は一見普通のサラリーマンだったが、目がどこか虚ろで、彼女に対して妙に親しげだった。
春樹はカウンターに座り、すぐに密に話しかけてきた。
「この店は、いつも静かでいいですね。でも、少し消えかけているような気がします」と言った。
密はその言葉に少なからず驚いた。
なぜなら、彼女もその店の空気が「消えかけている」と感じていたからだ。
特に、客がなかなか来なくなった最近、彼女はこの空間がすべて幻想であるかのように思えていた。
春樹は深く息を吸い込み、密の目を真っ直ぐ見つめ続けた。
その瞳の中には、何か暗い秘密が潜んでいるように感じられた。
話を進めるうちに、密は彼に引き込まれていく自分を感じた。
彼女は春樹が持っている「何か」に興味を覚え、話を続けることにした。
「過去には少し変わった出来事があったんです」と彼は語り始めた。
その声は、静かでありながらどこか引き込まれる魅力を持っていた。
春樹は、ある日、繁華街の近くにある古い体育館を訪れたと語った。
そこでは、一冊の古びた日記を見つけたという。
その日記には、「消えてしまう人々」についての話が綴られていた。
その記録には、愛する人が失われていく様子や、人々の記憶が徐々に消えていく様が描かれていた。
恐怖を感じつつも彼はその日記を読み進めてしまった。
すると、あるページには「消える」という単語が大きく書かれており、それを読んだ瞬間、自分の周りの景色がぐらりと揺れて見えたという。
密は話に引き込まれ、体温が下がるのを感じた。
春樹がその日記を持ち帰ろうとした瞬間、「感じるな」という声が背後から聞こえたと言った。
彼は振り向いたが、誰もいなかった。
その日記を読み終えて以来、彼は日常生活の中で頻繁に「消える気配」を感じるようになったのだ。
親しい友人が次々と忘れていくような、そんな感覚だった。
「密さん、この店も、何かが消えつつありますよね。ここに来る人々の思い出も、少しずつ薄れているような気がします」と、春樹は言った。
密は無言で彼を見つめていた。
彼の言葉が胸に刺さり、彼女もまた、店の雰囲気が重く、息苦しく感じていたことを思い出した。
その時、バーの照明が不意にちらついた。
密は驚いて周りを見渡した。
誰もいない。
当然のことだが、彼女の心の奥底に不安が広がった。
「その日記、戻してきた方がいいんじゃない?」と、密は思わず疑問を口にした。
春樹は静かに首を横に振った。
「もう遅い。私も、あなたも、その日記の影響を受ける運命にある。消えないためには、ただ待つしかない」と言った。
その言葉には哀しみがあった。
密は自分の体にも変化が訪れていることに気づき、焦り始めた。
彼女の目の前の春樹が徐々にぼやけ始め、姿が消そうとしているようだった。
密の心臓が早鐘のように打ち始めた。
彼女は叫びたかった。
しかし、声が出ない。
密は必死に春樹に向かって手を伸ばそうとしたが、彼の姿はますます薄れていく。
無常を感じながら、気付けば春樹は完全に「消えた」ようだった。
そして、その瞬間、密は気づいた。
彼女もまた、薄れていく感覚に襲われていることを。
「この店も、私も、消えてしまう……」密の心に恐怖が押し寄せた。
彼女はそのままカウンターに崩れ落ち、暗闇に呑み込まれていった。
気がつけば、静まり返ったバーの中で、彼女の存在だけが消え去っていた。
誰も彼女のことを思い出すことはなく、ただ静寂だけがそこに残っている。