「消えゆく睡蓮の囁き」

彼女の名は美香。
彼女は都会の喧騒から逃れるように、郊外にある広々とした園に訪れた。
色とりどりの花々と美しい木々が彩るこの場所は、心を癒すための静かな隠れ家だった。
この日も美香は一人、ゆったりとした時間を過ごすために、園の奥へと足を運んでいた。

美香は、気になった花を見つけては近づき、その香りを楽しんだり、優雅な姿を写真に収めたりしていた。
時折、雀や蝶が舞い、彼女の心を楽しくさせた。
しかし、特に印象に残ったのは、彼女が立ち寄った小さな池だった。
そこで珍しい白い睡蓮が浮かんでおり、その透明感に思わず息を呑んだ。

彼女は、池のほとりに座り込み、睡蓮を眺めながら静かな時間に浸った。
その時、不意に風が強くなり、周囲がざわめいた。
彼女は身体を震わせ、何か不穏な気配を感じた。
次の瞬間、池の水面が波立ち、まるで何かが水中から浮上してくるかのようだった。
美香はその光景に目を奪われた。

ふと視界の端に、人影が映った。
美香は思わず振り向いたが、そこには誰もいなかった。
心に不安が広がりながらも、彼女は再び睡蓮に目を向けた。
しかし、目の前にあったはずの白い睡蓮が消えていた。
彼女は驚き、もう一度見返した。
やはり、そこにはただの水面が広がっているだけだ。

「何が起こったの? さっきまで確かにあったのに…」美香はそう呟きながら、あたりを見回した。
しかし、奇妙な静寂が庭園を包んでいる。
周囲の鳥の声さえも途絶えていた。

池の辺りから立ち上がり、彼女は少し不安になりながらも歩き出した。
園を散策していると、花々の色が徐々に薄れ、周囲の景色がぼんやりとしたものへと変わっていくのを感じた。
美香は、いつの間にか園の中にいるはずの人たちが誰もいなくなったことに気づいた。
ついさっきまで素敵な散策を楽しんでいたのに、今や孤独な空間にいるようだった。

「本当にここは現実なの?」美香の心に疑念が芽生え、恐れがゆっくりと彼女の内面を侵食していく。
彼女は、園の奥へ進むことを決意した。
何か異様な気配の正体を確かめるために。

さらに道を進むにつれ、花々の輪郭がぼんやりとしてきた。
それに伴い、周囲の色が失われていく。
まるで美香の存在が園の中で溶け込んでいるかのようだった。
「消えてしまう…」恐怖の声が心の奥で響き、それが美香を突き動かした。
彼女は全速力で出口を目指した。

しかし、走るごとに、景色はますます歪んでいく。
「どうしてこんなことに…」美香の脳裏には、目の前に立っていた睡蓮の姿が思い浮かび、その美しさが今は遠い記憶のように感じられた。
彼女はもう一度、池に戻ることを決意した。

たどり着いた池のほとりには、今もただの水面が広がるだけ。
けれども、薄暗い水面の下に、かすかに彼女の姿が映っているような気がした。
美香は恐怖に駆られ、そのまま池を見つめ続けた。
すると、今度は水面が微かに波立ち、彼女の目を引いた。

目の前に浮かんできたのは、あの白い睡蓮。
そこで美香は、一瞬時間が止まったかのように感じた。
だが、次の瞬間、彼女の背後から何かが近づいて来る気配を感じた。
振り返る余裕もなく、彼女は抱いていた不安が一気に現実となることを知った。

美香の存在が、ゆっくりと消えていく。
その感覚とともに、彼女は最後の叫びをあげた。
「助けて…!」しかし、誰もいない園の静寂の中、その声は消えてしまった。
美香の姿は次第に薄れていき、彼女が感じていた美しい風景もまた、色を失い消えていった。

人々が忘れ去ったこの園の一隅に、美香の声が残り続けることだけが、彼女の存在を物語っていた。
消えた彼女の記憶と共に、園は今も静かに佇んでいる。

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