「消えゆく愛の思い出」

霧の深い夜、静かな田舎町の一角にある古びた民宿「灯り宿」は、長い間誰も訪れることがなかった。
しかし、その日は、何かに引き寄せられるように、若いカップルの智也と佐紀がその宿に泊まることを決めた。
彼らは特別な理由があったわけではなく、ただの旅行気分だった。
周囲の豊かな自然の中で、彼らはリラックスした時間を過ごすことを期待していた。

宿に着くと、彼らを迎えたのは、年老いた女将の秘。
彼女は小柄で、いつも微笑みを浮かべていたが、目にはどこか哀しみが漂っていた。
智也と佐紀は、不気味な雰囲気に若干の戸惑いを覚えながらも、女将の温かいもてなしに安心感を抱いた。

その晩、宿の部屋で二人は楽しく過ごし、夜が更けるにつれ、周囲の不気味な話が耳に入ってきた。
秘が言った。
「ここには、昔、愛する人を失った者の霊がいると言われています。彼女は心を閉ざし、その思いを消したくても消せずに、今もこの地に留まっているのです。」智也はその話に興味を持った。
愛した人が亡くなった者の思いが、どのようにしてこの場に影響を与えるのかを想像するのは、彼にとって興味深いテーマだった。

静寂が広がる中、智也は秘に尋ねた。
「その霊を見た人がいるのですか?」すると、秘は考え込み、やがてこう答えた。
「誰かがその霊と向き合うことで、彼女は生きた証を求めるのです。しかし、直面すると、消してしまいたい心の傷が表に出てしまいます。」その言葉は、智也に何かしらの恐怖を感じさせた。

夜が一段と深まると、宿の周りは不気味な静けさに包まれ、智也は次第に不安を覚えていた。
ふと気がつくと、佐紀の姿が見当たらない。
部屋を探していると、ふと外からかすかな声が聞こえてきた。
「智也…こっちに来て…」それは、まるで佐紀の声のようだった。
しかし、彼女が呼ぶその音は、じわじわとした恐怖を呼び起こした。

智也は声のする方向へと進んだ。
ついに彼は、民宿の裏手にある小さな池のほとりにたどり着いた。
そこで彼が見たものは、自分の目を疑う光景だった。
水面に映る佐紀の姿が、まるで誰かに呼び寄せられるかのように朝がたの霧の中に溶け込みながら、消えていくのだった。

「佐紀!」智也は叫んだが、彼女は振り向くこともなく、ただ水面に何かを映し出しながら、呼び続けていた。
その時、秘の言葉を思い出した。
彼女の失った愛が、今、佐紀を惹きつけているのだ。
智也は恐怖に駆られ、佐紀を助けようと決意した。
彼女の心に潜む何かを理解しなければならない。

智也は佐紀の手をしっかりとつかみ、「戻ろう!」と叫んだ。
その瞬間、佐紀の目は覚めるように大きく見開かれた。
そして、彼女は何かに取り憑かれたかのように振り返り、「私は何をしていたの…?」と混乱した表情を見せた。

無事に民宿に戻った智也と佐紀だが、その夜、何かが変わってしまったような感覚を覚えた。
秘は彼らの様子を見てとり、静かにこう言った。
「心の傷が消えない限り、彼女はまだここにいるでしょう。」智也は秘の眼差しの中に、失った愛のための痛みが込められていることを理解した。

物語の終わりに、カップルは無事に帰ることができたが、彼らの心には、あの恐怖の記憶が根強く残っていた。
特に、智也は時折あの夜の出来事を思い出し、愛する人を失うことの恐怖をかみしめていた。
彼女と共に過ごした時間が、彼らにとっての甘美であり、同時に消え去ることのない影が心に住み着いてしまう、そんな怪談のような思い出を抱え続けた。

タイトルとURLをコピーしました