「消えゆく仲間の呼び声」

ある冬の夜、退職後の心のリフレッシュを求めて、花はひとりで宿に宿泊することに決めた。
その宿は、静かな山間に位置し、かつては賑やかな温泉地だったが、近年は人が少なくなり、静寂が支配する場所となっていた。
花が到着すると、宿は館主一人だけが迎えてくれた。
宿の中は薄暗く、どこか懐かしい香りが漂っており、彼女は少し心地よさを感じた。

夕食までの間、花は周囲を探索した。
ひとつの部屋の扉がわずかに開いており、薄暗い室内から漏れ出る空気に誘われて、彼女は中に入った。
そこには古びた柱時計が掛かっており、静かに刻まれる音が唯一の音であった。
窓の外からは雪が静かに舞い降り、風景は幻想的な美しさを持っている。

その時、彼女の耳にかすかに「え」という声が聞こえた。
はっとして振り向くが、誰もいない。
ただの風の音かと思ったが、その声は消えず、まるで遠くの誰かに呼ばれているようだった。
花は少し不安になりながらも、その声に引き寄せられるように、宿の隅々を探ることにした。

夜が更け、宿の共用スペースに戻った花は、館主にこの宿のことを尋ねた。
館主は、宿の歴史や以前の賑わい、そしてある過去の出来事について語り始めた。
彼女が聞いていると、館主の話から、「放」の文字とともに消えた客の話が出てきた。
その客は、宿に滞在中、友人との仲を深めるために訪れてきたが、ある夜、忽然と姿を消したという。

花はその話に興味を持ち、さらに詳しく聞こうとしたが、館主は何か気まずい表情を浮かべ、話を打ち切った。
その瞬間、再び「え」という声が彼女の耳元で聞こえた。
今度は明確に、悲しみを帯びた声だ。
花は恐れを抱きつつも、その声の主を見つけたい一心で、再び宿の奥へと進む決意を固めた。

廊下を進んでいくにつれ、声は段々と大きくなっていく。
まるで彼女を呼んでいるかのようだった。
花はついに、流しの向こう側の障子の前にたどり着く。
障子をそっと開けると、そこには一人の女性が立っていた。
彼女は薄暗い中で、どこか懐かしさを感じる美しい姿をしていた。
しかし、その目は虚ろで、まるで世界から隔絶されたかのような表情をしていた。

「私…仲間を探しているの…」その女性の声は、花の心に強く響いた。
「私も…仲間を探している…あなたは誰…?」と、声を返そうとした瞬間、女性の姿が溶け込むように消えてしまった。
驚きと恐れから、花は後ずさりし、再び宿の共用スペースに戻ると、足がすくんでその場に立ち尽くした。

夜が更けるにつれ、「え」と呼ぶ声は更に頻繁に聞こえるようになった。
館主に何が起こったのか再度尋ねても、彼は明言を避けるのみ。
花はついに、自分自身がその未解決の過去に巻き込まれているのではないかと思い始めた。
そして、自分もまた、その「仲間」の一人になってしまうのではないだろうか。

彼女は恐恐とした気持ちで再び寝室に戻り、薄暗い室内で眠ろうとしたが、背筋には冷たいものが走っていた。
果たして、明日この宿を出ることができるのか。
それとも自分も、その女のように姿を消す運命にあるのか。
布団の中で目を閉じても、記憶の奥底に呼び寄せられる声が響き続けていた。

翌朝、宿を後にする際、館主が花に向かって微笑み、見送った。
だが、その姿にはどこか影が差しているようにも見えた。
そして、彼女が宿を出た瞬間、ふと振り返ると、そこで再び一瞬、薄い影のような女性の姿を見た。
どこか切なげな表情で花を見つめていたその目が、彼女の心に強く残り、宿の記憶が決して消えないことを確信した。

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