「消えた記憶の温泉宿」

夏のある日、友人たちと一緒に温泉旅行に出かけた拓也は、静かな山奥に佇む一軒の温泉宿に宿泊することにした。
宿は古く、歴史を感じさせる佇まいだったが、周囲の自然と相まって、どこか魅力的な雰囲気を醸し出していた。
宿には数組の客がいたが、そのほとんどは静かにくつろいでおり、拓也たちもまた、お風呂に浸かりながら日常の疲れを忘れていた。

しかし、湯から上がった後、拓也はなんとなく不安を覚えていた。
宿のスタッフは表情が硬く、早めに休むように促されることが多かったからだ。
疑問に思いつつも、友人たちと楽しいひとときを過ごした拓也だが、夜が更けてくると、宿の雰囲気も一変する。

深夜、温泉宿の廊下を歩いていた拓也は、ふと目にした小さな門を見つけた。
そこへ続く道の先には、薄暗い竹林が広がっていた。
友人たちには内緒で、その道を探索してみることにした。
薄暗い道を進んでいくと、次第に不安が募り、鳥肌が立ってきた。
しかし、何かに導かれるように進んでいく。

竹林を抜け、神秘的な光が漏れる場所へ辿り着いた拓也は、驚愕の光景を目にする。
そこには、一人の女性が立っており、彼が見たことのない白い着物を身に纏っていた。
彼女は一瞬、微笑んで見せたが、その表情にはどこか不気味なものがあった。
彼女の姿は透けるように見え、竹林の影と混ざり合っていた。

「あなたは何者?」拓也は恐る恐る尋ねた。

「私はこの場所に縛られた者。いずれあなたも消えてしまうかもしれない。」女性は静かに答えた。
拓也は、その言葉の重さに黙り込む。

その瞬間、周囲の竹が強風に煽られるように揺れ、彼の目の前で女性の姿が徐々に消えていく。
彼は混乱し、逃げ出そうとしたが、体が動かない。
彼女は再び現れ、今度は彼に向かって手を差し伸べてきた。
彼女の目には悲しみが宿っていた。

「助けてほしい。」彼女は囁く。
「私をここから解放して。」

拓也は反射的に後退り、恐怖で息を飲んだ。
何が起こっているのか理解できなかった。
彼女の言葉には真剣な響きがあり、ただの幽霊ではない何かを感じ取ったのだ。
しかし、彼女を助けるという選択肢は、彼自身を危険に晒すことになるのではないかと考えた。
彼は心の中で葛藤した。

消えかけた彼女の姿が、再び明らかになる。
その瞬間、彼女の口から漏れ出た言葉が、拓也の心に深く刻まれた。
「あなたが私を許せるなら、私を解放して。さもなければ、あなたもこの場所に縛られる運命になる。」

拓也は迷った。
しかし、彼女の plea を無視することはできなかった。
ほとんど本能的に、彼は口を開く。
「わかった、あなたを解放します。」

その言葉を聞いた女性は、微笑みながら彼の手を握った。
その瞬間、彼女は光となり、小さな粒子に変わって消えていく。
拓也の心には、彼女の悲しみが少しだけ残った。
彼は喉が渇いているかのように、強い喪失感を味わった。

翌朝、宿のスタッフに昨夜の出来事を話すと、彼は驚いた様子で答えた。
「その女性は、数十年前にこの宿で亡くなった霊です。未だにこの場所に留まっていると聞きます。」

拓也は宿を出る寸前に、心の奥にまだ彼女の存在が残っていることに気づいた。
彼は家に帰る途中、彼女の想いとその場所の記憶が、ずっと心の中で生き続けることになることを確信した。
彼女のせいで彼は消えてしまってはならないのだと、再び意識を強く持った。
無数の思い出の中に、彼女の願いが永遠に宿るかのように。

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