「消えた記憶と雨の男」

梅雨の季節、激しい雨が降りしきる夜、小さな町の片隅に位置する古びたアパートの一室に、田中優子という女性が住んでいた。
彼女は日々の仕事に追われ、心の余裕を失っていた。
雨音に包まれている夜、優子はソファに座り、テレビの明かりだけが淀んだ部屋を照らしている。
忙しい日常から逃げ出したいという思いを抱えつつ、彼女はその日も自宅で過ごしていた。

しかし、雨はただの背景音ではなかった。
ある晩、激しい雨音の中、優子は何かに呼ばれるような感覚を覚えた。
窓の外を見つめると、雨に濡れた街灯の明かりの中に、素朴な顔立ちの中年の男性が立っているのが見えた。
彼の存在は妙に気になり、優子は目を輝かせた。
しかし、すぐにその男性は雨の中で消えてしまった。
彼女は驚き、目の前の現実を疑った。

翌朝、会社に行く途中、優子は近所の人々にこの出来事を話そうと思った。
街の人たちに聞くと、誰もその男性を見たことがないと言う。
しかし、町の古い伝説には「雨の夜に現れる男がいる」と囁かれているという話を耳にした。
彼が望むものは、現実から逃げる人々の心の中に存在すると言われていた。
その言葉が優子の心に突き刺さった。

日が経つごとに、優子は再びその男性を見たいというぼんやりとした欲望を持つようになった。
すると、またしても雨が降り出した。
夜になると、その日もテレビをつけたままソファに座り、優子は荒れた心を癒やすために、外を眺めていた。
すると、ふと意識が遠のき、おぼろげな幻影が目の前に浮かび上がった。
雨に濡れた中年男性が、再び現れたのだ。

「逃げたいのか?」その声は雨音の中にかき消されることなく、優子の心に直接響いた。
優子は恐怖とともに、心の奥で応えた。
「逃げたい…。でも、何から逃げればいいのかわからない。」

すると、男性は微笑みながら、ゆっくりと近づいてくる。
彼の目には優しさが宿っていたが、それと同時に何か不気味なものも感じられた。
「私が助けてあげる。お前の望みを叶えるために、代償が必要だ。」

優子は心躍らせながらも、彼の言葉に不安を覚えた。
しかし、その瞬間、彼女は何かに気づいた。
自分が逃げたいのは、過去の悔恨や、閉塞感、そして人との関係だったのだ。
これを手放すためには、何かを捨てなければならないと心の深いところで悟った。

「私には何が必要ですか?」と尋ねると、男性は答えた。
「あなたの記憶、それを私に捧げることで、全てを消し去ることができる。」

優子はその言葉を聞いて思わず恐怖を覚えた。
自分の記憶、つまり自分の過去や思い出までも消してしまうことが果たして正しいのか。
だが、逃げ出さねばならない思いが、彼女の心を急かした。

「やっぱり、イヤだ。」

その瞬間、男性の形がゆらめき、雨音が一層激しく聞こえるようになった。
優子は全てを忘れる覚悟を決めかけていたが、かすかに心の奥で、「本当にそれが望みなのか」と自問自答する声が響いた。

彼女は必死に逃れようと、目の前の男性に背を向け、部屋の中を駆け回った。
だが、部屋の壁が雨に反響し、なかなか出口を見つけられない。
感覚が麻痺していく中、一瞬で全ての光が消えた。
その時、優子は絶望の中で思い知った。
彼女が逃げようとしたのは、過去でも思い出でもなかった。
それは、逃げることで得られる一時的な安らぎだったのだ。

目を覚ますと、彼女は再び自宅のソファに座っていた。
静まり返った部屋には、雨音だけが響いていた。
外の景色はいつの間にか晴れ渡っていた。
だが、彼女の心の中には、何も残っていなかった。
自分が抱えていたものも、人との絆も、全てが消え去ってしまっていた。
逃げ出すことに慣れ、彼女はただ一人ぼっちで消えていく自分を見つめ続けることになったのだった。

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