夜の静けさが駅を包み込む。
照明が薄暗い中、ひときわ目立つ駅名標には「月見駅」と書かれていた。
寂れたこの小さな駅には、通り過ぎる電車も少なく、人影はまばらだった。
そんな駅で、ある女性が不思議な体験をすることになる。
その名は佐藤由美。
彼女は都内での生活に疲れ、故郷のこの小さな駅を訪れることにした。
駅のホームに立ち尽くす由美は、どことなく懐かしさを覚えながら周囲を見渡す。
彼女の心には幼い頃に友人と遊んだ思い出が浮かんでくる。
しかし、そんな思い出も束の間、夜が深まるにつれて、駅の空気が変わり始めた。
急に気温が下がり、明らかに不気味な雰囲気が漂う。
「まだ電車は来ないのかな…」
由美は時計を見つめる。
あと数分で電車が来るはずなのに、待ち遠しい気持ちが次第に不安に変わってゆく。
そんな時、視界の隅に何かが動いた。
彼女は振り返ると、影のようなものがホームの端に立っているのを見つけた。
それは一人の女性。
彼女は黒いワンピースを着て、長い黒髪を垂らしていた。
顔は微かに暗がりに隠れ、表情は見えなかったが、その姿に由美はぞっとした。
「おい、気を付けなよ」由美は心の中で呟いたが、その影はまったく動かない。
まるでその場に留まることを運命づけられているかのように。
由美は影に目を向けたまま、じっと立っていることに耐えられず、恐る恐る駅の中へと足を踏み入れる。
すると、ふと頭の中に何かの印を感じた。
かすかな声が響く。
それは「由美…」という呼び声だった。
心臓が高鳴る。
この駅に来る前に感じたのとは違う、奇妙な懐かしさだ。
恐らく迷ったのだろうか、由美はその声に導かれ、奥へと進んでいった。
駅舎は暗く、ひんやりとした空気が漂っている。
突然、彼女は自分の現在を忘れ、過去の記憶が鮮明に蘇る。
友人との楽しい時間、家族との再会、そして運命に翻弄された事件。
由美はその時、仲間たちを失ってしまったことを思い出す。
「もう一度会いたい…」彼女は心の中で呟いた。
その瞬間、背後にいた影が近づいてきた。
恐ろしさとともに一瞬固まったが、振り返った先には女性の姿があった。
彼女の顔は、徐々に明るくなり、由美の心の奥に深い印を刻む。
「あなたは…誰ですか?」由美が問いかけると、影は口を開いた。
「私はあなたの友人よ。あなたが忘れ去った、かけがえのない存在。そして、あなたが抱えている想いを解き放ちに来たの。」その声は柔らかく、どこか懐かしい響きを持っていた。
由美は混乱しながらも、徐々に自分の心が解放されていくのを感じた。
「私を忘れないで、由美。あなたにはまだ私たちが必要なの。」
電車が到着する音が聞こえ、由美は惹き寄せられるようにホームへ振り向く。
そして目の前にまた現れたその影は、彼女の手を引こうとする。
「行ってはいけない、戻って!」思わず叫ぶ由美。
しかし、彼女の心はすでにその影に引き込まれていた。
目の前には、懐かしさが満ちているのだった。
帰れない運命、失われた記憶、夥しい夜の闇が徐々に彼女に覆いかぶさり、結局、由美はその影と共に月明かりの中に消えた。
そして、月見駅はまた静寂に包まれ、かつての陽気な声が再び失われることとなった。
駅の裏には、かつての名前を持つ者たちが静かに待ち続けているのかもしれない。