「消えた書店の記憶」

静かな町にある小さな書店。
その店は古びた建物の一角にひっそりと佇んでいた。
店主の田中は、この書店を35年間営んでいて、毎日たくさんの本に触れることを何よりの喜びと感じていた。
田中は、ひたむきに仕事をする姿から、地域の人々に愛されている存在だった。

ある晩、閉店後の書店で不思議な現象が起こった。
田中が本を整理していると、ふと目の前の棚の上にある一冊の古い本が目に入った。
その本は「未発見の書」と名付けられた、尘埃に覆われた手書きの本だった。
好奇心に駆られた田中は、その本を手に取った。

ページをめくると、内容は意味不明な文字と図形で埋め尽くされていた。
しかし、その中には「人の存在を消す方法」が書かれているように見えた。
田中は驚きと興味が入り混じった気持ちで、その言葉を読み進めていった。

「この本は、存在しないことに癒しを与える力を持っている。」読み進めるうちに、田中は不思議な感覚を覚えた。
まるで言葉が脳の奥深くに染み込んでいくようだった。
試しに、その内容を使ってみようと考えた。
自分の身近な人々、特に嫌なことを言った同僚や近所の人々の名前を頭に浮かべながら、ページの指示に従った。

その晩、田中は布団に潜り込むと、頭の中に浮かんだ名前たちが次第に消えていくのを感じた。
翌朝、田中は意気揚々と書店に向かった。
しかし、何かが変わっていた。
道中にいるはずの同僚や近所の人々の姿が見当たらない。
まるで町が静まり返り、彼を取り巻く世界が少し小さくなったかのようだった。

書店の戸を開けると、そこにはいつも通りの本が並んでいた。
しかし、田中の心に不安が渦巻き始めた。
彼は「未発見の書」について考え直した。
有名な作家や偉人の存在も、田中の心の中から次第に薄れていくような気がした。
人々の存在が意図的に消えてしまったのだろうか。
それとも、自分自身の妄想なのか。

数日が経つにつれ、田中は周囲の変化を無視できなくなっていた。
書店には、お客さんが一人も来なかった。
彼を心配する声も聞こえず、町の人々の記憶から消えたかのようだった。
そして、彼自身の存在も不安定になっていく。
地元の新聞や噂話にも彼の名は登場しなくなり、最終的に自身が何者であるのかを考えることすらできなくなっていった。

そんな時、再び「未発見の書」の存在を思い出した。
田中はもう一度その本を手に取り、隅々まで読み直した。
しかし、彼にできることは、消したい名前を思い浮かべるだけだった。
実際に自分の名前が消えるかもしれないという恐怖が頭を占めていたが、他にどうしようもなかった。

ある夜、田中は本を開いたまま寝てしまった。
夢の中で、彼は古びた図書館に迷い込み、無数の本に囲まれていた。
その中には、自分の名前が書かれた本がたくさん並んでいた。
「消すことの恐怖」を再認識した田中は、本を閉じる決意を固めた。
そして、朝日が昇る頃、彼はその本を打ち捨て、もう一度人々との関わりを取り戻すことを決心した。

しかし、時すでに遅し。
田中が目を覚ましたとき、彼はすでに「存在しない人」として、書店の裏手にぽつんと立っていた。
彼を知る者はいない。
町は静まり返り、彼の名も思い出されることはなかった。
ただ、古びた書店だけがそこに残され、そして、彼の存在を消した「未発見の書」は、そのままの状態で棚に並んでいた。

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