富士山の麓に佇む古びた宿「森の宿」。
その宿には、かつて訪れた客が決して帰ってこなかったという噂があった。
宿の主人は息子の淳一と二人三脚で経営しており、静かな森に包まれたこの宿は、観光客にはあまり人気がなかったが、時折冒険心を持った若者たちが訪れることがあった。
ある日、大学生の佳奈は友人の翔太、舞、美和と共に泊まることに決めた。
彼女たちは山登りが好きで、富士山の美しい夜景を見に行くつもりだった。
しかし、決して踏み入れてはいけないと彼女たちに警告する村人の言葉を忘れていた。
宿に着くと、神社からの古びた奥まった雰囲気が漂い、周囲の静けさが耳に響いた。
宿の主人は穏やかで、待っていたかのように無表情で、「ゆっくりしていってください」とつぶやいた。
その言葉を聞いた瞬間、佳奈たちは戸惑いを覚えた。
その晩、佳奈たちは部屋に集まり、カードゲームをすることにした。
笑い声が響く中、外から聞こえてくる不気味な風が、何かを運んでくるようだった。
突然、宿の明かりがちらつき、そして消えた。
「停電かな?」美和が言った。
「ちょっと見てくる」と淳一が答え、部屋を出た。
しばらくして戻ってくると、顔が真っ青になっていた。
「外、すごい風だ。何かおかしい」と彼は呟いた。
その瞬間、宿の真ん中にある鏡が揺れ、薄暗い部屋の中に奇妙な影が映った。
その影は人の形をしていたが、どこか崩れて見えた。
佳奈は恐怖にかられ、声を失った。
「こ、この宿、なんか変じゃない?」舞が低い声で言った。
彼女たちは恐る恐る窓の外を見ると、何も見えなかったが、まるで誰かに見られているような感覚に苛まれた。
その夜、佳奈は不安で眠れず、他の仲間を起こそうとしたが、美和が寝ている姿に異変を感じた。
彼女は微動だにせず、呼吸も途絶えていた。
「美和!」佳奈は急いで彼女を揺り起こそうとしたが、彼女の肌は冷たく、まるで生気が失われているかのようだった。
「どうしたの?美和、起きて!」彼女は叫んだが、応えはなかった。
焦り始めた佳奈は、翔太と淳一を呼びに部屋を出た。
しかし、宿の廊下は異様に長く感じられ、周囲がまるで歪んでいるかのようだった。
「淳一、翔太!美和が…!」佳奈が叫んだ瞬間、宿全体が震え、壁のひびから黒い水が流れ出した。
その水が床を覆い、彼女は必死に逃げようとした。
ところが、その水が彼女に触れると、冷たさと共に恐ろしいビジョンが彼女の中に流れ込んできた。
「呪われた宿、呪われた身…」それは宿の主の声であり、宿の歴史を語るものであった。
この宿では、かつて人々が訪れては消え去り、その魂が未練を残しているという。
そして、その魂は新たな宿泊客を欲しているのだと。
佳奈は振り返り、廊下を逃げたが、どこを見ても彼女の仲間の姿はなかった。
室内の明かりが次々と消えていき、宿はまるで彼女を取り込もうとしているように思えた。
心臓が高鳴り、恐怖が頭を支配する。
彼女は出口へ向かおうとしたが、扉は不気味な音を立てながら閉ざされてしまった。
「助けて!」佳奈の声が響くが、宿の中は静寂に満たされ、誰も応えない。
彼女の目の前には、穏やかに微笑む宿の主の姿があった。
彼はただ一言だけ言った。
「一緒に、帰りましょう…」
そして、その瞬間、彼女は急に俯いてしまった。
彼女の身体に異変が起こった。
目の前に映る鏡の中に、自分の姿はなく、代わりに薄暗い影が彼女を取り囲んでいた。
ほどなくして、彼女の意識はかき消され、宿の一部となってしまった。
その後、「森の宿」には新たな消えた客の噂が静かに広がっていくのだった。
無邪気な笑顔の彼女の姿は、誰にも見えることは無く、ただ失われた命が宿を彷徨うのだった。