「消えた名前の館」

静まり返った館に、ひとりの女性が足を踏み入れた。
彼女の名は美咲。
友人たちから貸し受けた暇つぶしのための館巡りの中でも、この館は特に不気味な噂が広まっていた。
人々は、ここに訪れた者の魂が消えてしまうと語っていた。
そのため、美咲は興味半分、恐れ半分で館の中へと足を運んだ。

美咲が館に着くと、薄暗い廊下が彼女を迎えた。
かつては賑やかだったであろうこの場所は、今や湿気と埃に覆われ、時間が止まったかのようだった。
美咲は一歩一歩、緊張感を抱きながら進んだ。
すると、突然、彼女の背後でギシリと音がした。

振り向くと、誰もいない。
しかし、次の瞬間、視界の端に人影がちらりと見えた。
恐る恐るその方向を見つめると、薄い白い布に包まれた人の姿が浮かんでいた。
美咲は心臓が高鳴るのを感じながらも、その人物に近づいてみることにした。

人影はただ静かに立っていた。
近づくほどに、その存在感は確かなものとなった。
しかし、顔は布に隠されており、表情を窺うことはできない。
美咲は、思わず恐怖心から後退りしそうになったが、好奇心が勝り、さらに近づいた。
そして、ついに美咲は声を発した。
「あなたは誰?」

その瞬間、静かだった館に、ささやくような声が響いた。
「私の名前を呼んでください…」その声は、どこか悲しげで、他の者の心を揺さぶるものだった。
美咲は思わず息を飲み込んだ。
その声は、誰かの魂の叫びのようにも感じられた。

「私の名前を…」再度その声が響く。
美咲は思わず、その名前を呼ぶべきか躊躇したが、「私…私の名前は美咲です」と答えた。
人影は微動だにせず、ただ静かに立ち尽くしている。
美咲は、少しずつ不安が高まっていく。
次第に薄暗い館の空気が重く感じられ、居心地が悪化していった。

「忘れられてしまった…」その声が再び耳元で囁く。
美咲は恐ろしさに駆られ、視線を人影から逸らした。
館の壁に目をやると、そこにはかつての住人たちの絵画が飾られていた。
しかし、彼らもまた、どこか無表情で、生気が感じられなかった。

ひとしきりの沈黙の後、美咲は再び人影に向き直った。
「あなたは何を求めているの?」その問いに、人影は微かに動いた。
「私の魂を、取り戻してほしい。」その言葉に美咲は言葉を失った。

魂が消えるという噂は、ただの迷信ではないのかもしれない。
彼女は館の不気味な雰囲気に飲み込まれそうになりながらも、何とか冷静さを保とうとした。
人影は、美咲を見つめ続けていた。
その目が、彼女の心の奥にある恐れを見透かすかのように。

「どうしたら、あなたの魂を取り戻せるの?」美咲は必死に尋ねた。
すると人影は、一瞬静まり返り、続いてこう答えた。
「私を呼ぶ者がいなくなったとき、私は消えてしまう。私の名前を、私の記憶を…消さないで…」

その瞬間、美咲は魂が代わりに消えてしまう恐ろしさを感じ、何も答えられなくなった。
彼女の心には、恐怖と同情が渦巻き、身動きができなくなった。

「名前を呼べないまま過ごしてきた。他の者を呼ぶこともできず、忘れ去られた。どうか、私の名前を叫んでほしい…」その人影の言葉が美咲の心に重くのしかかった。

美咲は思わず叫んだ。
「私はあなたを忘れない!」その声が、静けさの中に響いた瞬間、人影はぴたりと動きを止めた。
そして、布の中から顔が見えた。

その瞬間、美咲は自らの魂が吸い込まれていく感覚を覚えた。
まるで人影が彼女の中に入り込もうとしているかのようだった。
恐れを抱きながらも、彼女はその目が消えていくのを見つめていた。

館の中から逃げ出そうとするも、足が重く感じられ、動けない。
美咲の魂は、彼女の内に無数の闇が流れ込む感覚に圧倒されていく。

館は深い静寂の中で、美咲の叫びが消えた。
戻ることのできない場所で、彼女は人影とともに、永遠に館の中で彷徨った。

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