「消えた停留所の狐」

ある地方の小さな村には、古い停留所があった。
その停留所は、長い間使われていない古びた木のベンチだけが残され、周囲の風景とはまるで調和していないかのようだった。
村の人々は、そこで何があったのか知る者はいないが、誰もがその場所に足を運ぶことを避けていた。

ある晩、村の若者である健一は、友人との帰り道、ふとその停留所の前で足を止めた。
友人たちはそのまま進んでしまったが、健一は何かに引き寄せられるように、ベンチに近づいた。
そこには、何かの印のように見える淡い光が浮かんでいた。
近くに寄ると、その光は桃色の花びらの形をしていて、まるで彼を待っていたかのように、静かに揺らめいていた。

不思議な魅力に引かれ、健一は花びらを手に取ると、その瞬間、目の前の世界が一変した。
停留所の周りには、彼が見知ったはずの景色が広がっていたが、何かが違った。
村は見慣れた姿から、異次元のような色彩を帯び、まるで夢の中にいるかのようだった。
彼は意識を失う寸前に、自分の身が消えていく感覚を覚えた。

目を覚ました健一が見たのは、全く知らない場所だった。
薄暗い森の中に立っており、周囲には生い茂る木々が立ち並んでいる。
彼が恐れを感じると、ふと耳元にささやくような声が聞こえた。
それはまるで誰かが彼を呼び寄せているようだった。
「こちらへおいで。」

声に導かれるように森の中を進むと、不意に彼の目の前に一匹の狐が現れた。
狐は真っ白な毛並みを持ち、目は琥珀色に輝いていた。
不思議なことに、その狐は彼に向かって言葉を発した。
「私の印を受け入れなさい。そうすれば、あなたは私とも、あの日の記憶とも繋がることができる。」

健一は驚いたが、その狐の言葉に魅了された。
彼はその印を受け入れ、彼の手のひらに小さな紋様が浮かび上がった。
それは狐の形をした印で、触れるたびに不思議な温かさを感じた。
彼には、その瞬間に自分が狐と繋がる存在になったような感覚があった。

しかし、次第に健一は不安を抱き始めた。
招かれた森の奥へ進むにつれて、光景がどんどん異なっていく。
周囲の木々は無数の影のようなものに包まれ、彼の身を取り囲むように迫ってきた。
狐は何も言わず、ただ健一を見つめていた。
その目にはどこか冷たい輝きが潜んでいた。

その時、彼は悟った。
彼はこの狐と共に姿を消す運命にあるのだ。
しかしその時点で、健一は自らの意志で帰ることができるのかどうか、分からなくなっていた。

「帰りたい」と彼は叫んだ。
しかし声は森に吸い込まれ、周囲の静けさだけが響いた。
狐は彼に向かって微笑んでいるように見えたが、その笑顔が彼を包み込む影になっていく。
彼は心の中で過去の思い出が消えていくのを感じた。
楽しかった日、友人たちとの思い出が一つ一つ消え去り、自分自身も薄れていく感覚がした。

恐怖が心を支配し、健一は狐から逃れようとした。
しかし足は動かず、彼はそのまま立ち尽くすしかなかった。
そして気がつけば、何もかもが真っ暗になり、狐の姿さえも消えてしまった。

村では健一の姿が消えてしまったことに気づいた者は少なかった。
彼の友人たちはいつも通りの日常を送り続け、停留所のことはあっという間に忘れられた。
しかし時折、停留所の近くを通る者たちは、淡い光を目にすることがある。
その光の正体を知らず、不安を感じる者もいれば、興味を持って近づく者もいる。

しかし、彼らがその光に触れたとき、健一のことは決して思い出されることはない。
彼はもう、この世界には存在しないのだ。
彼の記憶は消え、狐の化身となり、彼に語りかける影として、停留所に住み続けている。

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