「消えたバス停の影」

バス停での待ち時間は、いつも以上に長く感じられた。
静かな夜の街は、冬の寒さに包まれ、薄明かりの下で人々が行き交うのもまばらだ。
そんな中、山田はバスを待っていた。
彼の日常は変わらないもので、仕事を終えて帰る毎日だったが、その日は一つだけ違っていた。
彼は急いで帰らなければならない理由があった。

「早く来いよ…」彼は手元の時計を確認し、苛立ちを覚えた。
バスの到着時刻が過ぎても、いっこうに姿を見せない。
夜の空気に溶け込むかのような静けさが、彼の心に不安を与えていた。

ふと、彼は目の前のバス停のベンチに座っている女性に気づく。
彼女は黒いコートを着ており、顔は影に隠れて見えなかったが、その姿はどこか不気味だった。
彼女がいつからそこにいるのか、さっぱりわからなかった。
山田は居心地の悪さを感じながら、一瞬目をそらした。

「来るのかな…」彼は呟き、再び遠くを見つめた。
その時、背筋に冷たいものが走る。
女性が何かをつぶやいているのが聞こえた。
その声は、まるで彼を呼び寄せるように響いていた。
しかし、内容は聞き取れない。

「ん?」と、思わず振り返る。
すると、女性の姿が消えていた。
瞬きした瞬間、彼女はどこにもいない。
周囲には誰一人としておらず、ただ静寂が広がる。

「何だ…これは…?」彼は焦りを感じ、周囲を見渡すが、誰もいない。
ふとした拍子に、少年が走り去る姿を見かけた。
そこに、彼女が立っているのを再び見かけたが、すぐに消えてしまう。
山田は彼女の影に引き寄せられるように、じわじわと近づいてしまった。

その瞬間、彼女が再び現れた。
今度は、彼のすぐ目の前に立っていた。
だが、相変わらず顔は見えない。
彼はせめて目をそらさずにいることを心掛けた。

「あなたは、誰ですか?」彼は恐怖に脅かされながらも、声をかけた。
返事はない。
彼女はゆっくりと顔を上げ、山田の目をじっと見つめた。
彼女の表情が見えないのは、まるで暗闇に包まれているかのようだ。

不意に、彼女が指を差し示した先には薄暗い道が続いていた。
山田は何かに引き寄せられるように、その道に一歩を踏み出した。
声をかけることすらできず、ただ彼女の後を追ってしまった。
その先に何が待っているのか、彼は全く分からなかった。

しばらく歩いた後、彼はバス停の明かりが遠くに見えるのを感じた。
「なんだ、戻ってきたのか…」ほっとしつつも、後ろを振り返ると、彼女の姿は消えていた。

だが、その手ごたえはまだ残っていた。
歩くたびに、彼女のかすかな気配が後ろに感じられ、なぜか振り返ることができなかった。
心のどこかに、「消えてしまいたい」と思う自分がいることを知っていたからだ。

それでも、そのままバス停に帰った彼は、自分の思考が少しずつ狂っていくのを感じるようになった。
何度も周りを見回しても、あの女性の姿はない。
誰もいない静けさが、むしろ彼を強く圧迫した。

バスがやっと到着したが、山田は何かが違う気がして、乗ることができなかった。
運転手は不思議そうに彼を見るが、彼は自分の意志を力強く示した。
すでに、気配は消え、ただ夜が続いているだけだった。

自宅に帰った山田は、ベッドに倒れ込み、思いにふける。
あの女性は、一体何だったのだろう。
彼の心の中には、消えたいという思いが湧き上がる。
あの道が、彼を何処に導くのか、思いを巡らせるが、答えは見つからない。

深い眠りの中で、彼は再び女性の声を耳にする。
その声が、彼を呼び寄せていたことを夢の中で再確認する。
山田は、もはやその存在から逃げることはできなかった。
彼女の影の中に迷宮のように閉じ込められ、そして消えてしまう運命に導かれていた。

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