波音が心地よく響く海辺の村。
村は小さく、住民は数世代にわたって海と共に生きてきた。
人々にとって海は、豊穣の象徴であり、同時に恐れを抱かせる存在でもあった。
子供たちは海で遊び、大人たちはその恵みを受け取っていたが、ある噂が村を覆うことになる。
それは、深い夜闇に包まれた海の底から、何かが呼ぶ声が聞こえるというものであった。
「え……え……」と耳に残るその声は、村人に忍び寄る不安の源となった。
特に若者たちは、その声に魅了され、波打ち際でじっと耳を傾けることが増えていた。
ある者は、「のぞきに行こう」と言い出し、また別の者は「海に何かいる」と噂し始めた。
そんな中、村の外れに住む若者、光太はその噂を耳にした。
彼は好奇心と恐怖が交錯する心を抱えていた。
光太は、幼い頃から海に遊びに行くのが好きだった。
しかし、今の海は彼にとって異なる。
魅惑的な声に引き寄せられるように、彼は海の中に何かが潜んでいるのではないかと感じ始めた。
ある晩、月明かりの下、海の静寂に耳を傾ける光太。
波のさざめきの中に、やはりその声が響いていた。
「え……え……」声はもはや彼の心の奥に染み込んでいる。
心を決めた光太は、靴を脱ぎ、冷たい海水の中へと足を踏み入れた。
波は優しく彼を迎えるが、何かが彼を引き込もうとする感覚があった。
彼は水中で体が重くなり、あたりが闇に包まれていくのを感じた。
その瞬間、彼は思った。
おそらく、この声の主は、彼に何かを伝えようとしているのだろう。
希望を胸に進むと、目の前に一つの影が浮かび上がった。
それは無数の人影のようで、どの顔も見えないが、皆が同じように彼を見つめている。
「のぞきに来たのか？」その声は、目の前の影から直接響いてきた。
光太は恐怖に震えながらも、言葉を選ぶ。
「何が起こっているのか教えてほしい。」
その問いに、影たちは一斉に微笑んだ。
しかし、その笑顔は村の人々が知る優しさとは異なり、どこか無表情で、冷たいものであった。
「の……根に戻ろう」と、声は再び響く。
光太は、その言葉が何を意味するのか理解できなかった。
すると影たちは一斉に彼を囲み、彼を水の奥深くへと引きずり込んでいった。
彼は必死に抵抗するが、力を振り絞ることもできず、ただ流されるままになる。
意識が遠のく中、ふと彼の目に映ったのは、海面が遠く、村が小さく見える光景だった。
村人たちの姿が、波間に溶けてゆくように消えていく。
彼はその時、無意識のうちに村のことを思い出していた。
遊び友達と過ごした楽しい日々、波と戯れた若き日の自分、そして、彼を待っている家族の顔。
「のぞいてはいけない場所がある」と、心の奥で何か叫びが響く。
彼は必死に思い出し、そして気づいた。
彼は今、過去を手放そうとしているのだと。
村の絆、家族の愛情、すべてを忘れ去ってしまうのかもしれない。
その時、深い水の中で光太は一つの決断をする。
「帰る！」彼は全力を尽くして水面へと向かった。
影たちの手が彼を引き止めようとするが、彼はその力を振り切る。
意識は朦朧とし、水に沈む感覚も薄れていくが、彼の心には確固たる決意があった。
そして彼は水面に到達し、息を吸い込む。
海は彼の味方のように、彼を優しく包み込む。
月明かりの下、彼は自由となり、彼岸の声に抗って生き延びた。
その数日後、光太は村に戻り、何が起こったのかを人々に話した。
しかし、彼がその話をしている間、村の人々の間では、また新しい子供たちが海に近寄り、耳を澄ませていた。
「え……え……」と、海の声が静かに響いていた。
幽玄な海との絆は、どこまでも深く、人々を魅了するのだった。
