狛(こま)は、一人の若者だった。
東京の小さな港で育ち、海の匂いや波の音に慣れ親しんでいた。
しかし、彼の心にはどこか影が潜んでいた。
普通の日常の中で、他人との関係が希薄で、自分自身を見失うことが多かったのだ。
彼は自分の存在意義を求めていたものの、それが一体何なのかは分からなかった。
ある晩、友人たちとの飲み会の後、酔った勢いで港へと足を運んだ。
波の音が耳に心地よく、月明かりに照らされた水面は、どこか神秘的に見えた。
彼は自分の思いを海に向かって呟いた。
「俺は、何をしているんだろう…」言葉が消えると、突如として不気味な感覚が狛を襲った。
辺りは静まり返り、ただ波の音だけが響いていた。
その時、目の前の水面が波紋を描き、何かが浮かび上がってきた。
それは、無数の手のようだった。
手は次第に形を成し、彼の視線の先に向かって伸びてくる。
身動きが取れない狛は、恐怖に震えた。
手は何かを訴えるかのように、彼の方へと迫ってきたのだ。
狛は瞬時に自身が見ているものが現実なのか、夢なのか分からなくなった。
「俺は、誰だ…?」狛は心の中で叫ぶ。
「これは一体、何なんだ…」耳の中で自分の声がこだまし、怪しげな雰囲気が次第に彼を包み込んでいく。
手のひらは大きく広がり、まるで彼を受け入れるように見えた。
彼は通り過ぎた過去の出来事を思い出していた。
周りの誰もが彼を理解していないという思い込みが、彼の心を蝕んでいたのだ。
その瞬間、海の手が一際大きく伸び、狛の腕に触れた。
彼は恐怖で硬直したが、手は冷たく温かかった同時に感じ、まるで自己の一部に触れているように思えた。
視界が暗くなり、彼は無意識に海に引き寄せられていった。
海の深淵に消え込みそうな感覚と共に、彼の心の奥底が突き動かされていることに気付いた。
「お前はお前だ。己を忘れるな…」その声が、彼の心に直接響いてきた。
狛は思わず目を閉じ、深呼吸をした。
海の深い部分に目を向ける勇気が湧いてきた。
その瞬間、狛は他人との繋がりを求めるのではなく、まずは自分自身と向き合う必要があることに気付いた。
彼を手招く無数の手は、自分が忘れかけていた心の中の一部を示しているのではないかと感じた。
恐怖を克服した狛は、その冷たい手を握った。
小さな力だったが、確かな感覚が彼を包み込んだ。
手を離すことができず、彼は海の中へ浸かっていく。
しかし、その瞬間に彼は、一緒にいるのは誰かではなく、己そのものであることを悟った。
怖れを抱えつつも、自分を受け入れる勇気を持つことで、暗い深淵から抜け出すことができるかもしれない、と。
次の瞬間、冷たい水の中に彼の姿が消えた。
奇妙な感覚のまま、狛は海の奥に引き込まれた。
彼は己との対話を始め、透明な手が彼の心を癒していく感触を味わった。
しばらくすると、波の音が遠ざかり、静寂が包まれる。
その場にいたのは、ただの冷たい海だけだった。
翌朝、港の近くに一人の若者が立っていた。
彼は新たな決意を胸に秘め、自分自身を見つけようとしていた。
無数の手は彼を迎えはしなかったが、今や彼は自分を見失うことのない存在になっていた。