「海に消えた誓い」

遠い海の孤島に、八木という男が住んでいた。
彼は小さな漁村で生まれ育ち、穏やかな海を愛していたが、最近、海に異変が起きていることに気づいた。
漁に出た際、何度も感じる不気味な気配、そして根拠のない恐怖に駆られ、かつて経験したことのない不安感が彼を襲うようになった。

村の長老が語っていた話が、彼の心に影を落としていた。
数十年前、ある漁師が海の底で禁忌の約束を交わしたという。
その約束を破ったがために、漁師は海の精霊に呪われ、永遠にその地で彷徨うことになった。
長老は、呪われた者の声が時折、波の音と共に聞こえてくると警告した。

八木は、この噂が本当であれば、その声を聞くことになるのではないかと怖れた。
彼は漁に出ることをためらい、日々を村での生活に費やしていた。
しかし、何も捕れない生活が続いたことで、彼の心に焦燥感が募っていく。
そんなある日、彼は村の外れにある古びた漁船を見つけた。
その船は長い間使われておらず、海の藻に覆われていたが、八木の心の中の好奇心が彼を引き寄せた。

船に乗り込むと、どことなく芳しい海の香りとともに、必要な道具が整っていることに驚いた。
その日、彼は覚悟を決めて漁に出ることにした。
船を漕ぎ出し、穏やかな海に身を任せると、海は彼を受け入れてくれるように優しく揺れた。
数時間後、漁に成果があった。
彼は満足しながら、村に帰る準備をしていた。
しかし、その瞬間、海の底から不気味な声が聞こえた。

「八木、約束を交わそう。」

彼は息を飲み、その声の方向を振り向いた。
波間から現れたのは、海の精霊の姿だった。
青白い光を纏い、静かに彼に近づいてくる。
その表情は妖艶でありながら、どこか寂しげだった。
八木は恐怖を感じつつ、言葉が飲み込まれた。

「あなたの誓いを聞かせて。私のために、すべてを捧げる覚悟はあるか。」

彼はどうしても口にしたくなった。
「何を捧げればいいのか?」と問いただす。
しかし、精霊の眼差しは鋭く、まるで彼を見透かすような深い海のようだった。

「あなたの遠い記憶の中にあるもの。それを忘れない限り、私はあなたの力となる。」

八木は戸惑った。
彼の中には、早い時期に忘れ去った誓いがあった。
若き日に、友と交わした「必ず成功しよう」という約束。
ただの無邪気な誓いだったはずだが、その記憶が海の精霊に影響を及ぼすことを考えると恐ろしく感じられた。

「もし、この誓いを守れなかったらどうなるのか。」八木の心は揺らいでいた。

「海に身を投げ、私の代わりにこの世を彷徨うがいい。それが理解できるまで、あなたは自由ではない。」

言葉が終わると、精霊は水面に姿を消し、周囲は再び静寂に包まれた。
八木は立ち尽くし、この現実が夢であってほしいと思った。
しかし、彼はその後、何回も海に出るたびに、精霊からの声が耳に響くようになった。

「あなたは誓った、忘れてはいけない。私に力を与えることを。」

日々の漁は次第に彼を苛むばかりだった。
村人からの信頼を失い、漁に出ても成功しない。
一方で、精霊との約束を果たすためには、遠い記憶を呼び起こさねばならなかった。
彼はその誓いを思い出すことができず、心の中は日増しに焦りと絶望に満ちていった。

時間が経つにつれ、彼の精神はすり減り、海もまた彼の心を飲み込んでいった。
ついに、彼は一つの決断を下す。
村の海岸で、かつて交わした誓いを思い出すために、彼は海へ足を踏み入れた。

人は静かに波にさらわれていく。
八木にとって、海は彼の全てだったが、今や彼は誓いを果たすことなく海に呑まれ、そのまま深き底へと引き込まれていった。
もう二度と思い出すことはできず、ただ永遠に彷徨う運命が待っていた。

タイトルとURLをコピーしました