港の静けさは、夜になると一層深まっていった。
波の音が遠くで響く中、村の人々は次第に家の中に閉じこもり、夜も遅れると海の暗がりに何かが潜んでいるかのような気配を感じていた。
そう、それは誰もが恐れている「悪いもの」の存在だった。
ある夜、港町に住む佐藤という青年は、友人の誘いで近隣の漁港を訪れることにした。
彼は仕事の合間にすっきりとして気分転換したくてたまらなかった。
そこで友人たちと魚を焼き、酒を酌み交わしていると、誰かがふと「この近くには、昔、海に沈んだ家があるらしいぞ」と話し始めた。
周囲がざわめく中、彼はその話に興味をそそられた。
「それは本当なのか?」と佐藤は促した。
友人の一人は、昔ここで起こった事件について話しはじめた。
港の沖合にあった一軒の家、その家には家族が住んでいたが、ある嵐の夜、強風に煽られ、海に呑み込まれてしまったという。
家族の魂はそのまま海に囚われてしまい、今でも港に現れるというのだ。
その話を聞いて、佐藤は恐怖を感じつつも、今夜の酒が彼の好奇心を煽っていく。
友人たちが笑いながら「実際に見に行こうぜ」と言い出すと、彼は賛同せざるを得なかった。
恐れを胸に秘めつつ、佐藤たちはのんきに酒を片手に沖合の小道を進んでいく。
やがて、湾の奥にたたずむ朽ち果てた家が目の前に見えてきた。
まるで時が止まったかのように静まり返った場所だった。
月明かりが照らし出すそのシルエットは、普段の家とはまるで異なる不気味な雰囲気を醸し出している。
そして、時折、海の向こうからなんとも言えない低い声が流れてくる。
誰もがその声に耳を傾け、心の底から恐れを感じた。
友人の一人が口を開く。
「これが家族の魂の声なんだろうな…」
その時、突然、海から冷たい風が吹き荒れ、周囲の気温が急に下がる。
佐藤は背筋が凍る思いをした。
どうにかしてその場を離れようとしたが、友人たちは「まだ寄ってみるべきだ」と言って彼を引き止めた。
勇気を振り絞り、彼らは中に入りこむ。
驚くべきことに、内部は思ったよりも整然としていた。
家具が朽ちているわけでもなく、微かに人々の気配が残っているかのようだ。
佐藤はただならぬ雰囲気に包まれ、彼の心に何かが呼び起こされる。
すると突然、窓の外にかすかな影が映ったかと思うと、それが一瞬で消えてしまった。
彼はその瞬間、家族の愛情を強く感じ、同時に、何かに憶えのあるような感情が心を覆った。
「この家で何かが起こった…でも、何だったのだろうか」と考えが巡る。
「ここにいる!」と大声で叫んだ友人が、強い声で家族に呼びかけた。
その瞬間、冷気が一帯を包み込み、かすかな影が再び浮かび上がる。
佐藤は思わず凍りついた。
目の前には、家族の面影を持つ人々の姿が徐々に浮かび上がってきたのだった。
「助けて…」という、響くような声が彼らの耳に届く。
だが、それはだんだんと次第に弱まり、消え行く声のように感じられた。
恐怖に駆られた佐藤は、思わずその場を離れようとした。
しかし、彼の心の中には「この家族を忘れないで」と何かが唸っていた。
彼は気づいた。
これが彼に何か大切なことを忘れさせないための記憶であり、魂が訴えかけているのだと。
家から逃げ出した佐藤は、凍りついた心を抱えつつ、港の明かりが見えてきたとき、ふと気付く。
彼はその晩、家族の声に呼びかけられ、記憶の中で誰かを助けようと無意識に努力をしていたのだと。
それ以来、彼はその家を訪れ続け、彼らの魂を引き寄せる存在になってしまった。
それが彼にとっての使命となり、彼はついに海を見つめて立ち尽くすのであった。