その沼は、誰も近寄らない禁忌の場所だった。
街の人々は昔から、沼にまつわる恐ろしい話を口にし、漁師たちも決してその水域では漁をしようとはしなかった。
しかし、伝説と共に流れる物語を信じない者もいた。
特に、若き漁師の健二はその一人だった。
ある日、健二は友人たちと話していると、沼の話題が上がった。
友人たちは口を揃えて「近づかないほうがいい」と警告する。
だが、好奇心が勝った健二は、彼らが帰った後、一人で沼へ行くことを決意した。
夜が訪れると、月明かりが沼を照らし、その水面はまるで生きているかのようにざわめいていた。
健二は沼の岸に立ち、その深い闇に吸い込まれるような感覚を覚えたが、恐れよりも興味が勝っていた。
彼は小さなボートに乗り込み、沼の中央へ漕ぎ出した。
波の音が静寂を破り、月の光が水面に跳ね返る。
すると、突然、遠くから囁くような声が聞こえた。
「行け、戻るな…」
驚き、健二は辺りを見回した。
しかし、そこにいるのは自分だけだった。
声の出所は不明だが、彼は何かに操られるように、さらに奥へと漕いでいった。
すると、その声がまた響いた。
「ご先祖様の恨みを…受け入れろ…」
意識が遠のきそうになる中で、健二は急に冷気を感じ、背筋にぞくりとした。
「こんなところで何をやっているんだ…」と自分に言い聞かせるが、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
彼の脳裏には、沼に伝わる古い伝説が浮かんできた。
それは、昔、沼で溺れた漁師たちの霊が、復讐のために今もこの地に留まっているという話だった。
彼らは無惨にも命を落とし、その恨みが街に降りかかると言われていた。
しかも、その霊たちは新しい獲物を求めて、ウンザリするほどの数だったとも。
恐る恐る健二はボートを引き返そうとしたが、動かない。
水面が渦を巻き、彼は恐怖で立ち尽くしていた。
目の前に浮かぶ声が、さらに大きく、暴力的になっていく。
「私たちの恨みを受け入れろ!」
その瞬間、健二の周囲に無数の影が現れた。
彼の目に映ったのは、血に染まった衣服を着た漁師たちの姿。
冷たい水が彼の足を包み込み、恐怖のあまり息が詰まりそうになった。
「戻りたい…」と心の底から願ったが、彼の思いは覆い尽くされていた。
影たちは一斉に健二に襲いかかり、「行け、私たちを継げ!」という言葉を投げかけた。
彼は恐ろしい光景を目の当たりにし、力尽きてしまった。
気が付くと、健二はあの沼の岸に立っていた。
日中であったため、彼の周りには誰もいない。
あの沼の出来事は夢だったかのように感じながらも、心の中に不安が残る。
彼は恨みを背負い、無言の村へと戻った。
それから数日後、健二の身体は急速に衰弱し、元気だった彼の姿は見る影もなかった。
街の人々は彼の様子を心配し、彼が沼に近づいたことを知ると、激しく非難した。
彼自身も、心の中で何かが変わったことを感じていた。
ある晩、夢の中にあの漁師たちが現れ、囁く。
「我々との契約を結べ…」呼びかけに抗えず、健二は「引き受けます」と言ってしまった。
そして、彼は沼の水を求めて夜な夜な出かけ、次第にその姿は村から消えていった。
翌朝、彼の姿を見た者は誰もいなかった。
ただ、沼の近くではいつも「健二」という名を呼ぶ声が聞こえてくるのだった。