公(こう)は、ある夏の夜、静かな田舎道を散歩していた。
街灯の薄明かりが、彼の足元をかすかに照らしている。
周りは静寂に包まれており、虫の声さえも遠くに感じる。
この道は彼が幼い頃から何度も歩いていた場所であり、なじみ深いはずだったが、その夜は何かが違っていた。
心地よい風が彼の髪を撫でる。
しかし、静けさの中に混じる不気味な気配を感じ、思わず背筋が凍る。
公は一瞬立ち止まり、周囲を見渡した。
時折、かすかな「け」という声が聞こえてくるような気がした。
それは、まるで誰かが自分を呼んでいるようにも思えたが、声の正体はわからない。
彼はその声を無視することにした。
軽いジョギング感覚で道を進むが、心の中で感じる不安は強まる一方だった。
そして、ある地点に差し掛かると、目の前に古びた看板が姿を現した。
「川の先に沈んだ村」と書かれている。
その瞬間、公の心の中に何かが蘇った。
彼は昔、小さな村が川の水に呑み込まれた話を聞いたことがあった。
興味を覚えた公は、さらに先へ進むことに決めた。
足元の石を踏みしめながら、彼は心の中で「済(すみ)」みを感じていた。
不安な気持ちを押し込め、前に進み続ける。
だが、道を進むうちに、背後から再びかすかな声が耳に入る。
「行(い)けない…」という響きは、その場の静けさを破るように彼の心に響いた。
恐怖心が膨れ上がり、公は振り返った。
しかし、そこには誰もいなかった。
ただ、静まり返った道だけが彼を見つめていた。
彼は再び前を向き、早足で進もうとした。
その時、彼の目の前に忽然と一人の女性の姿が現れた。
彼女は白い着物を纏い、穏やかながらも悲しい目をして彼を見つめていた。
「行かないで…」と彼女は低い声で呟いた。
公は動揺しながらも、彼女をじっと見つめ返した。
彼女の存在は明らかにこの世の者ではないように思えた。
彼は、彼女がかつて水に呑み込まれた村に住んでいた魂だと直感した。
彼の心には、一種の同情と共感が芽生えた。
「済(すみ)ません、私は…」と言いかけたが、彼女は静かに手を挙げた。
「行(い)く先を見つけて…」彼女の言葉は、彼の心に響いた。
苦しみの中でいる彼女は、永遠に行く先を失っているように見えた。
公は思わず感情が高まり、彼女が何を求めているのか、理解したくなった。
「何か手伝えることがあれば…」公が声をかけると、彼女は静かに頷いた。
彼に向かい、少しずつその姿を近づけてくる。
彼の心は、恐怖と同情で揺れ動いた。
その瞬間、あたりが暗くなり、風が強く吹き始めた。
彼女の姿はますます薄くなり、公は目を凝らして彼女を見つめた。
「私を忘れないで…」というかすかな声が、彼の心を更に揺さぶった。
結局、公はそのまま道を後にした。
古びた看板の前で立ち止まり、彼女の声を心に刻みながら、彼は長い道を引き返すことにした。
背後から漂う不気味な感覚がぬぐえないまま、彼は村がかつて存在した場所へと向かって心の中で去っていった。
あの夜の出来事は、決して忘れることのない記憶として、公の中に留まることになった。