「水面に沈んだ狂気」

静かな河のほとりには、かつて人々の賑わいがあった。
しかし、今ではその雰囲気は一変し、誰も近寄らない廃れた場所となってしまった。
河の水は澄んでいても、どこか不気味な静けさが漂っていた。
それでも、ある人物がこの河に魅せられ、毎日訪れるようになった。

彼の名は直樹。
彼は内向的で、周囲との関わりを持たぬまま、心の奥にひそむ狂気を抱いていた。
そんな彼は、河の水面に映る自分の姿を見つめる度に、何か異様な感覚に囚われていった。
いつしか、彼はその水面が彼に語りかけてくると感じるようになったのだ。

ある日、いつものように河のほとりでぼんやりしていた直樹。
水面に映る自分の画像が、微笑みを浮かべていることに気づいた。
しかし、彼自身はその表情を心の底から感じてはいなかった。
どこか遠く、虚ろな目で水を見つめる彼に対し、水面の彼自身は、まるで別人のように明るく、楽しげだった。

「見ているのか、直樹」と、彼の頭の中から声が聞こえた。
その声は、自分自身のものであるはずなのに、どこか他人のように感じられた。
彼は恐れと興奮の狭間で混乱し、さらに河に引き寄せられていった。

直樹は、ここに何かいるのではないかと感じ始めた。
誰かが彼を見ている。
何かが彼の心の奥を探っている。
その感覚は日に日に強まり、ある夜、とうとう彼は水辺に立ちすくんだ。
目の前の水面には、彼の知らない少女が映っていた。
彼女は静かに直樹を見つめ返し、口元には薄い微笑みを浮かべていた。

「私を見つけて」と彼女はささやいた。
彼女の声は直樹の心に響きわたり、狂気の中に引き込まれていく。
彼は何も考えられなくなり、ただその声に従うしかなかった。
直樹は河の水に手を伸ばし、少女のささやきに導かれるまま湖へと足を踏み入れていった。

彼が水に入るにつれて、水面は穏やかさを失い、ざわざわと音を立て始める。
直樹の足元からは冷たさが広がり、不気味な闇が彼を包んでいった。
彼は周囲の音をかき消す響きと共に、少女の姿が消えてしまったのを感じた。
途端に全ては静まり返り、彼はその静けさの中で足をすくめる。

直樹は思考を巡らせる。
「一体、何が起きたのか?」しかし、その言葉は水の中に吸い込まれ、何も返ってこない。
彼は次第に周囲の景色が変わり始め、自分の立っていた場所が見えなくなっていく。
彼は一瞬、恐怖を感じたが、その恐怖さえもすぐに忘れ去られた。
彼の頭の中には、ただ少女の声が繰り返される。
「助けて…私を見つけて」と。

その瞬間、彼は間がすべて消えたことに気づく。
時が止まり、全ての音が消え、彼は水の中に呑まれた。
周囲には何もなく、ただ闇の中で彼一人が浮かんでいた。
少女が現れた場所も、彼が立っていた場所も、過去も未来も消えてしまったのだ。
彼に待っていたのは、ただ狂ったような静寂だけだった。

直樹はその後、河のほとりに立っていた人々の記憶からも消えていった。
ただ静かな河の水面だけが、時折彼の名を呼んでいるかのように見えた。
彼の狂気は、河に取り残され、誰もが忘れ去った。

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