数年前、東京の片隅にある古びたアパートに祖父と二人三脚で暮らしていた雄斗は、季節が変わる動きと共に、祖父の体が次第に弱っていくのを感じていた。
月日が経つにつれ、祖父の目はどんどんうつろになり、言葉を発することも少なくなっていった。
ある晩、雄斗が夕食を作っていると、祖父が突然「止まれ」とつぶやいた。
振り返ると、祖父の表情は普段の穏やかさを失い、恐れと悲しみが交じった顔で窓の外を見つめていた。
何が起きたのかその時は理解できなかったが、祖父が感じている何かが、今この瞬間に影響を与えているという直感があった。
数日後、近所で頻発する奇妙な現象に気づくようになった。
道行く人々が突然足を止め、何かに見入っている様子が目に入った。
あの静寂。
時間が一瞬止まったかのような感覚。
その様子は孤独を増幅させ、雄斗はますます不安に駆られていった。
「慈悲の場所」の存在を知ったのは、ある老女との出会いがきっかけだった。
彼女は「止まることは、何かの犠牲になることなのよ」と呟いた。
彼女の言葉は雄斗の心に重くのしかかり、祖父の体調の悪化と共に発生する奇妙な現象が関連しているのではと感じた。
どうやら「慈悲の場所」は、過去の生と死の境が交錯する地点で、そこに足を踏み入れた者は何か大切なものを失ってしまうらしい。
祖父の「止まれ」という言葉が、実はこの場所へ足を運ばせようとする警告だと気づいたのは、その翌夜だった。
その晩、雄斗は祖父の部屋を覗き込むと、彼がかつて愛した一枚の写真を握りしめているのを見つけた。
そこでは彼の亡き祖母が微笑んでいた。
その光景が雄斗の胸に軋む音を響かせた。
「祖母のことが忘れられないのか…」そう思った瞬間、祖父は雄斗に向かって「実を言うと、私はここで滅びそうなんだ」と声をかけた。
その言葉に動揺した雄斗は「どういうことなの?おじいちゃん、何があったんだ?」と必死に尋ねた。
祖父はすぐには答えず、その表情はどこか懐かしさを漂わせていた。
「昔、私はお前の祖母を失った。その後、いつも、彼女が私の元に戻ってくるのを待ち続けた。しかし、待つことで私は自分を失ってしまった。彼女がいると思っていた時間は、実は私が止まっていた時間だった。だから、今もこの先も、何かを犠牲にしようとしている…」
言葉尻を失った雄斗の心に、祖父の実情が深く突き刺さった。
ところが、その日の夜、またしても近所で「止」が訪れた。
光景が停止し、彼は不思議な感覚に包まれる。
そして、まるで時間が逆流するかのように、死亡した祖母の元に引き寄せられるように感じた。
怯えながらも圧倒的な引力に抗えず、その場所へ踏み込むと、暗闇の中に祖母の姿が浮かび上がった。
手を伸ばそうとするが、振り向くとそこには祖父の悲しみが蓄積された顔があった。
「実の愛情は、滅びの果てにある」と彼は言った。
悲劇と引き換えに目の前にいる祖母に触れようとした瞬間、心の中で何かが破裂する音がした。
雄斗は祖父の存在を失ってしまった。
その後、彼は元いた場所へ戻る途になんとも言えない孤独感に襲われた。
祖父の言葉を飲み込み、彼は自らの代わりに「止まる」ことを選んだ。
そして、記憶の奥にある思い出の彼方で、祖父と不幸に満ちた愛の終焉を見つめ、もう一度だけ、家族に与えられた時間に感謝した。