「歌う架の影」

彼女の名は藍(あい)。
静かな郊外に住む普通の女子大生で、初夏の午後にひとりで散歩をしていた。
緑が生い茂る小道を歩くうち、彼女の目に留まったのは、薄暗い森の奥に佇む古びた架(アーチ)だった。
その架は苔むした石でできており、周囲には誰も近寄らないような冷たい空気が漂っていた。

藍は好奇心に駆られ、架に近づいてみることにした。
近づくにつれ、異様な静寂が心をざわつかせる。
何かが自分に呼びかけているような、そんな気がした。
しかし、特に何もない。
ただ空気の重さだけが彼女の心にのしかかる。

その瞬間、ひとつの歌声が耳に響いた。
優しく、切なく、どこか懐かしさを感じるメロディだった。
藍は思わず立ち止まり、歌の源を探そうと周囲を見回すが、誰もいない。
彼女は耳を澄ませ、歌に引き寄せられるようにして架の真下に立った。

「私、誰……?」

囁くような歌詞の中に、自身の存在を問い直す声が潜んでいる。
藍は気がつくと、その場に座り込み、歌を聞き入っていた。
どこかで聴いたようなこの歌は、彼女の胸に深い感情を呼び起こしていた。
自分が何者なのかを忘れかけ、歌の中に溶け込んでいるような気持ちになった。

歌声は徐々に激しさを増し、藍の心を掻き乱す。

「迷わないで、忘れないで……」

その言葉が繰り返され、心の奥底で抑えていた感情が溢れ出す。
視界が歪み、周囲の景色がぼやける。
彼女は自分が誰なのか、何を求めているのか、その答えを探し続けていた。
しかし、心の中で響くその歌は、曖昧な記憶を呼び寄せるだけだった。

「あなたは懐かしい……」

藍は気がついた。
その声は、自分の声と重なっていた。
そして、その歌は決して他の誰かのものではなく、自分自身が歌っているものであることに気づいた。
思い出のかけらが寄り集まり、彼女の心に再び痛みをもたらした。

「本当に私、私はどこへ行くの……?」

歌声は静まることなく、藍を導こうとするが、彼女はその歌の意味を理解できずにいた。
過去の思い出、追い求めた自己、迷いが彼女の足を縛りつける。

「私を見て、私を忘れないで……」

歌に込められた願いが、藍の心を揺さぶる。
自分を無視し、目を背けていた時間が、彼女の記憶に波のように押し寄せる。
だが同時に、恐れも生まれる。
もし、自分を見つめ直すことで、傷つくことがあったら……?

その時、藍は思った。
自分自身と向き合うことこそが、きっと本当の「自分」を見つける道なのだろうと。
しかし、歌が示す道は混沌としており、一歩踏み出す勇気が必要だった。

彼女は静かに立ち上がり、決意を持って架をくぐることにした。
歌声は次第にかすれていったが、心の奥では響き続けている。
そのメロディは決して消えることはない。
何かに向かって進むことで、自身を受け入れる力が生まれるのだと彼女は感じていた。

藍は自分の存在を確かめるために、もう一度振り返り、森を振り切るように歩き出す。
その足音が、彼女の決意の証となって響いていた。
歌は彼女に寄り添い、背中を押していた。
これからも彼女の心の中で、何度でも蘇るに違いない。
自分を見失ったとしても、いつか再び、あの歌に導かれることを信じて。

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