「歌い続ける影」

ある静かな居酒屋の片隅には、古びた一台のカラオケマシンが置かれていた。
この店の常連客である川村健二は、毎週金曜日の夜、友人たちと共にこの居酒屋を訪れるのが習慣だった。
彼はいつも明るく、仲間を楽しませることが大好きだったが、その夜、彼はいつもと違う気配を感じた。

居酒屋の中はにぎやかだったが、カラオケマシンの前だけは静まり返っていた。
健二は好奇心を抱いて、そのマシンに近づいた。
誰もこのカラオケを使おうとはせず、店主もただじっとしている。
何かが変だ。
健二は思い切って、マシンの電源を入れた。

突然、カラオケマシンがひとりでに起動し、昔の民謡が流れ始めた。
その曲は「犠牲の歌」と称されるもので、村の伝説に由来するものだった。
この曲には不思議な力が宿っているとされ、人々はその歌を聞くと、忘れかけた過去の記憶が蘇り、時には悲劇的な運命を呼び寄せるとも言われていた。
健二はそんな伝説を思い出し、不安を覚えたが、友人たちが勧めてきたため、彼は歌い始めた。

声が響くにつれて、居酒屋の雰囲気がどんどん変わっていった。
誰も話さず、健二の歌声に耳を傾けている。
彼はその低い旋律を歌い上げながら、次第に心の奥で何かが動き出すのを感じ始めた。
その瞬間、胸に痛みが走った。
彼は歌詞の中に、忘れたはずの自分の過去が埋め込まれていることに気づく。
それは、幼なじみの美紀との思い出だった。

美紀は、健二がまだ小学生だった頃に不幸な事故で命を落としてしまった。
彼は彼女を助けられなかった後悔をずっと抱え続けていたのだ。
歌が進むにつれて、彼の心の中にあった罪悪感がどんどん膨れ上がり、制御できなくなっていく。

周囲の人々が次第に異様な空気に飲み込まれ、居酒屋の空間がまるで冷たい霧に包まれるかのように感じられた。
店主ですら戸惑いを隠せず、彼らは何が起こっているのか理解できない様子だった。
歌詞の意味がじわじわと健二の心に染み込んでくる。
犠牲者が語りかけてくる感覚。
その瞬間、彼は「あの時、私を助けてくれなかった」と、美紀の声が耳に響いた。

その声に反応するように、健二の手が震え始めた。
彼は涙を流しながら、歌い続けることができなかった。
体が宙に引きずり込まれているように感じ、意識が怪しい世界へと誘われていく。
急に、居酒屋全体が急激に静まり返った。
周囲の友人たちの顔が青ざめ、恐怖で目を大きく見開いている。

歌の終わりを迎えると、居酒屋は一瞬の静けさに包まれた。
その瞬間、健二は漠然とした感覚を抱えながら、周囲を見渡した。
何が起こったのか。
彼の心の奥底で何かが完全に動き出してしまったのだ。
彼は美紀を助けられなかったことで、自らが生きる意味を失ったかのように感じていた。

店主が不気味な表情を浮かべる。
彼は健二に向き直り、「その歌は、決して誰もが口ずさんではいけないものだ」と言った。
健二はその言葉の意味を飲み込むことができず、自身の心の動揺と闇と向き合わなければならなくなった。

居酒屋は、彼の心の解放を求める場所となった。
しかし、その夜の出来事がもたらしたものは、彼の心に深い傷を残すことになった。
誰も知らぬ居酒屋での不思議な現象は、ただ一人の青年が自身の過去と向き合うための道を示したのだ。
彼は美紀のことを忘れることができず、今もなお彼女の声が心に響き続けている。
犠牲の歌は、彼を助けるでもなく、ただ彼を追い詰めるものとなっていった。

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