彼女の名前は美咲。
都会での忙しい生活から一時的に離れ、静かな田舎の実家に帰ることにした。
実家は山に囲まれた小さな村に位置し、周囲には美しい自然が広がっている。
この時期、ちょうど桜が満開を迎え、村は淡いピンク色の絨毯に覆われていた。
美咲は、実家に着くと、どこか懐かしい感情を抱いた。
幼い頃、母と一緒に桜の下で遊んだ思い出がよみがえる。
だが、喜びの中にわずかな不安も感じていた。
実家は長い間放置されていたせいか、どこか寂しげな雰囲気を漂わせていたからだ。
夜になると、彼女は小さな灯りをともして、昔のアルバムをめくっていた。
そこには、家族での楽しい思い出が詰まっていたが、ふと目を引く不気味な写真が目に入った。
それは、彼女の祖母が写ったもので、彼女の背後にはまるで何かが寄り添うかのような影が写り込んでいた。
「なんだこれ…?」美咲は不思議に思いながら、その写真をじっと見つめた。
すると、突然、彼女の背筋を冷たいものが走った。
耳元でささやくような声が聞こえた。
「美咲、帰ってきてくれてありがとう。」
その声は、祖母のものに違いなかった。
驚きと恐怖が入り混じり、美咲は思わずアルバムを閉じた。
その瞬間、部屋の温度がぐっと下がり、まるで誰かが冷たい風を吹き込んできたようだった。
美咲は、うっすらとした「何か」がその部屋にいるように感じた。
その夜、彼女は眠れずに過ごした。
部屋の隅で微かな音を感じ、目を向けると、かすかに揺れるカーテンの向こうに何かが見えた。
心臓が高鳴りながらも、彼女はその影に近づくことにした。
カーテンを開けると、そこには誰もいなかったが、ふわりとした花の香りが漂っていた。
その日以来、美咲は目に見えない存在と共に過ごす日々が続いた。
毎晩、寝室のあちこちからかすかなささやき声が聞こえ、時には桜の花びらが窓から舞い込んでくることもあった。
そしてその声は次第に明確になり、彼女に告げるようになった。
「私の記憶を、あなたに伝えたい。」
美咲は恐れを感じながらも、その声に魅了されていった。
彼女は実家の庭で無心に桜の木を見上げていた。
何かしら祖母の存在に触れたいという気持ちが、どんどん強くなっていく。
彼女は桜の下に座り込み、彼女の記憶を紡ぎ始めた。
祖母の残した言葉や教え、そして彼女が愛していた風景を思い出し、ゆっくりと心に刻んでいった。
翌朝、彼女は庭で蜀葵の花を見つけた。
それは何年も見なかったもので、祖母が大切に育てていたものだった。
美咲は、その花を手に取ると、祖母の笑顔が脳裏に浮かんだ。
この花を育てることで、祖母の思い出を戻すための記憶の修復作業が始まったのだと実感した。
日が経つにつれ、美咲は朝な夕なに桜や蜀葵の手入れをしながら、祖母との会話を楽しんだ。
やがて、気付けば村の人々もその美しさに心を寄せるようになり、村の風景が彼女の存在を通じて華やかに変わっていった。
村全体がその影響を受け、美咲は自分自身が祖母とつながっていることを心の底から実感するようになった。
だが、ある晩、美咲は再びあのささやき声を聞いた。
「もう少し、記憶を忘れないでいてほしい。あなたを我が家に迎える準備ができた時、必ず戻ってきてね。」その言葉を最後に、祖母の存在は静かに消えてしまった。
美咲は涙を流しながらも、彼女の記憶を大切にする決意を新たにした。
村はその後も美しく咲き誇る桜や蜀葵に包まれ、彼女は今でも毎年その場所を訪れ、祖母との思い出を心に抱いている。
彼女の中で、祖母は永遠に生き続けるのだ。