ある日の夜、嫁の美香は、古い実家を訪れた。
彼女の夫が、父親の遺品整理をするため、一時的に実家に帰っているのだ。
美香は普段の生活から離れ、静かな時間を過ごすことを楽しみにしていた。
しかし、実家はいくつかの古い物がそのまま残されており、特に一つの古びた台が目を引いた。
その台は、長い間使われていないようで、表面は埃に覆われ、ところどころ色が剥がれていた。
美香は手を伸ばして、その台を拭くことにした。
すると、何か不思議な感覚が彼女の手に伝わってきた。
それは、冷たくもありながら、恐ろしいほどの温もりを感じさせるものであった。
次の日、台の上に置いてあった謎の古い染め物を見つけた美香は、興味を持った。
それは数枚の布切れで、淡い青色が薄れていく様子が不気味に映っていた。
彼女は手に取ってみると、布から不気味な香りが漂っていた。
その瞬間、頭の中に言葉が響いた。
「染まりなさい、染まりなさい…」
美香はその声に驚き、恐怖を感じたが、好奇心が勝り、布を自分の肌に触れさせてみることにした。
布が肌に触れると、瞬時に彼女の心はどこか遠くへ運ばれていった。
視界が揺らぎ、見知らぬ風景が広がった。
そこは、彼女の夫が子供の頃に遊んでいた場所だった。
美香の心には、見知らぬ声や視覚が次々と押し寄せた。
それは、台の周辺で生きた人々の想いや感情だった。
彼女は台の周りで繰り広げられた結婚式や日常の光景を目の当たりにし、時折聞こえてくるささやきに耳を傾けた。
「彼を愛している。彼女が好きだ。ずっとこの台の上で…」
日が経つにつれ、美香はその台と染め物に取り憑かれ、何度もその世界を訪れるようになった。
夫の実家で過ごす間、彼女は現実と夢の境が曖昧になり、まるでその場に居続けるかのように感じた。
しかし、そんな中でも美香の体には徐々に異変が現れ始めていた。
手足が青褪せ、肌の色が異様に青みがかり始めたのだ。
美香は夫にその状態を話すことができず、次第に彼女は自分自身を制御できなくなっていった。
ある晩、夢の中に再びその台が現れ、美香は出てくる言葉を逃れることができなかった。
「私たちになりなさい。私たちの一部になりなさい。」
美香はそれを拒むことはできなかった。
台の上で何度も繰り返される自分の姿、そしてその光景の中で彼女はどんどん染まっていく。
やがて、美香は完全にその不気味な世界に取り込まれてしまった。
彼女の体はもはや彼女自身ではなく、過去の悲しみや喜びが交錯する一つの染まり物になってしまったのだ。
夫が彼女を呼ぶ声が聞こえるが、それは遠くから響くようにしか感じられなくなった。
美香は最終的にそのまま消え、実家の台だけが残された。
そして、台の上では薄い青色の布が静かに翻り、時折かすかな声が聞こえてくる。
「染まる、染まる…」
そしてその台は、再び誰かの心を捕らえ、次の染め物を待ち続けることになるのだろう。