その町には、着物を着た女性の霊が現れるという噂が広まっていた。
彼女はかつてその町に住んでいた村娘、名を美咲と言い、家族を失った悲しみから愛する人を探し続けているという。
美咲の霊を見たという者は、彼女の望みを聞いてしまうという恐ろしい現象が続いていた。
ある晩、大学生の優は友人の翔太と共に肝試しに出かけることにした。
彼らは特に怖いもの好きではなかったが、面白半分に、少しでもスリルを味わえればと考えていた。
その日は新月で、暗闇に包まれる町の中を、夜の静けさが不気味な緊張感を醸し出していた。
彼らは噂の発祥地である空き家に向かう途中、美咲の話を交わしていた。
「本当に美咲がいるのか、誰か見た人がいるのかな?」と優が言うと、翔太は軽く笑い飛ばし、「そんなの迷信だろ。美咲が出たって誰も望んでないよ」と応じた。
しかし、着物を着た女性の霊がその町で生きた証を求め彷徨っているかのように、気のせいか彼らの背筋に冷たさが走った。
空き家についた彼らは、ドアを開け、薄暗い中に一歩足を踏み入れた。
部屋には散乱した家具や折れた畳があるだけで、特に何も感じなかった。
しばらくして、翔太が突然、何かに引き寄せられるようにソファに近づいた。
「おい、これ見てみろよ」と、彼が指差した先には、古い着物が無造作に置かれていた。
美しい模様が施されたその着物は、まるで誰かがここで待っていたかのように、彼らを呼ぶような存在感を放っていた。
「触らない方がいいと思う」と優が警告したが、興味を抑えきれない翔太はその着物に手を伸ばした。
着物に触れた瞬間、優は耳元で女性の囁きを聞いた。
「私の望みを叶えてほしい…」という非現実的な声が、まるで彼自身の内側に響いているかのようだった。
翔太は目を見開き、背筋を凍らせて言った。
「俺、何かまずいことしちゃったのかもしれない…」
その時、周囲の空気が一変し、遠くから美咲の姿が現れた。
着物を纏った彼女は、美しくもどこか悲しげな笑みを浮かべ、肩をすくめていた。
彼女の存在はまるで夢の中から這い出てきたかのようで、翔太の手のなかの着物が急に色褪せて見えた。
優は恐怖を感じながら振り返った。
翔太はすでに彼女に惹かれてしまっていた。
「優…俺、彼女の声が聞こえる。なんだか、望みを叶えたら解放される気がする…」翔太はその瞬間、我を忘れたように美咲に近づき、何かしらの意志を感じた。
その時、優は決意を固めた。
「翔太、やめろ!彼女は君をさらおうとしてるんだ!」
翔太は驚いたように振り返ったが、その目はまるで別人のようになっていた。
「俺は美咲と一緒にいたい、彼女の望みを叶えてあげたい!」翔太の声はかすれ、心の中が混戦を極めているのがわかった。
優は友人を助けるために、美咲の霊に向かって叫んだ。
「お願いだから、翔太を解放して!彼はあなたに戻るつもりなんてないんだ!」
その言葉が響いた瞬間、静寂が訪れた。
美咲は無言で翔太を見つめ、少しずつその表情が変わり始める。
彼女の悲しみは、どこか解け始めたように感じられた。
美咲は翔太の手を離し、彼に微笑みかけた。
そして、その姿はゆっくりと消えていった。
優は何とか翔太を引き戻し、部屋から逃げ出した。
二人は息を切らして暗闇の中を走り続け、無事に外に出ることができた。
空は新月のままだったが、彼らの心には一筋の光が差し込んだように感じていた。
その夜、美咲の望みはやはり叶わなかったが、彼女の存在は確かに彼らの心に生き続けていた。
優は思った。
この町には依然として美咲が居続ける。
望みを持った者が、彼女に出会わないことを祈りながら、彼らはその町を後にした。