夜の静けさが支配する町外れの廃業した旅館「間」。
かつて多くの人々で賑わったこの場所も、今では誰も寄りつかない。
外観は年月に蝕まれ、木の壁はひび割れ、窓ガラスは朽ち果てていた。
噂では、ここには「望みを持つ者を奪う霊がいる」という。
不気味な伝説を抱えるこの旅館は、心霊スポットとして知られ、興味本位の若者たちが挑戦する場所となっている。
大学生の光太は、その伝説に好奇心を抱いていた。
彼の友人、直美もまた肝試しを楽しむ性格で、今回の探検に付き合うことになった。
夜が深まり渡り道が薄暗くなると、二人は旅館の前に立った。
恐怖に怯える様子は見せず、逆に興奮しているようだった。
懐中電灯を片手に、扉を開けると、古びた香りとともに、ひんやりとした空気が迎えた。
館内に入ると、重苦しい静寂が広がっていた。
廊下を進むにつれ、過去の記憶が漂うような気がした。
部屋の扉を開けると、床には長い間使われていない家具が積み重なり、埃を被っていた。
しかし、廊下の端にある「望みの間」という部屋に目が留まった。
直美がその名を口にする。
「ここ、行ってみようよ。」
光太は小さく頷き、懐中電灯の光を頼りに部屋に近づいた。
扉は驚くほど簡単に開き、内部は薄暗く、かすかな陰影が動いていることに気づいた。
部屋の中心には古い鏡があり、その前には一対のキャンドルが消えかけている。
まるで誰かがここで望みをかけているかのようだった。
「なんか不気味だね……」光太は思わず声を漏らした。
直美は鏡を覗き込んだ。
「この鏡、すごく不思議な感じがする。なんだか、何かが映り込みそう。」
急に静寂を破るように、風が吹き荒れた。
二人は驚いて、周りを見回した。
光太はハッとした。
彼が見たものは、自分の背後に立つ黒い影だった。
恐怖で動けなくなるが、その影は確かに存在し、じっとこちらを見つめていた。
「光太さん、後ろ!」直美の絶叫で、ようやく現実を思い出した。
振り返ると、もうその影は目の前にはいなかった。
しかし、心のどこかでその影が彼らの望みを狙っている感覚がした。
「ここから出よう」と光太は言った。
しかし、直美は鏡に吸い込まれるように近づいて行く。
「私はこの鏡に映った自分が本当に望むものを見つけたい……!」彼女は呼びかける。
「直美、やめて!何か怖いことが起きる!」光太は焦ったように声をあげたが、直美の瞳はすでに別世界に映し出されているように見えた。
その瞬間、彼は直美の口から「私の望みを叶えて!」という言葉が聞こえた。
鏡が不気味に揺らぎ、次の瞬間、直美の姿が消えた。
驚愕に包まれた光太は、無我夢中で部屋から飛び出した。
しかし、館の外は静寂そのもので、どこを見ても彼女の姿は消えてしまっていた。
急いで元の道を戻ると、背後から「光太、助けて……」という直美の声が聞こえた。
しかし、その声はどこから発せられているのか分からなかった。
彼は叫びながらその声を追い続けたが、進めば進むほど、声は遠ざかっていく。
旅館の外に出たとき、振り向くと、窓の奥でちらりと直美の顔が見えた。
彼女は助けを求めるかのように手を伸ばしていた。
「直美!」光太は一歩ずつ近づこうとしたが、どれだけ進んでも距離が縮まらない。
周囲の空気は温度を失い、最後に彼女の姿が完全に消えた瞬間、重苦しい静寂が彼を包み込んだ。
それ以来、光太は「間」には二度と近づかなかったが、心の中には直美の忘れがたき影が生き続け、その声が耳に残るのだった。
彼はもう一度望むことはなかった。
希望は、時に恐怖の道具になることを思い知ったからだ。